讃美の衣

 今日は、特にイザヤ書61章3節にある「讃美の衣」という聖句に目を留めてお話ししましょう。主は、「暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」来てくださったと言っています。「讃美」とは神を讃えることです。本当にわたしたちを充足させるものは、心から神を讃えることです。全ての被造物をお創りになったお方は、ご自分が讃えられることを望んでおられます。人は自分に満足を与えるのではなく、神に満足を与えるのでなければ満ち足りることのできないように造られています。「人の心には、神しか埋めることの出来ない空間がある」と言うことを聞いたことがあります。

神を讃美することは、わたしたちが神から力を得ることになります。わたしたちは神を讃美するのですが、神は「讃美の贈り物」として感謝や喜びをわたしたちのものとしてくださいます。

「信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって賞賛されました」(へブル11章1、2節)とあります。

 「讃美の衣」を、神はすでにわたしたちの為に用意して下さっています。わたしたちは、それを自分の物として受け取ればよいのです。
 では、今日の聖書の箇所を読んでみましょう。今日は2種類のヘブル語からの翻訳です。

[新改訳]  イザヤ書  61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、61:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。

[新共同訳]  イザヤ書  61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め61:3 シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。

今読んでいただきましたイザヤ書61章1‐3節は,神より遣わされるメシヤ(キリスト)の語る言葉であり、メシヤの使命が示されています。ルカは,キリストの誕生によってここで預言されていることが成就したと記しています。ルカの福音書4章18‐19です。この聖書のことばは、イエス様が「今日このことばが成就しました」とご自分をさして言われたことばです。

 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」

日本語集会の祈祷会で聖書の学びを始めた頃、最初に祈りについて学んでいきました。その中で、祈りの手を皆さんに紹介し、その最初に学んだのが讃美と感謝でした(親指とひと指し指でしたね)。祈りは讃美と感謝を持って始めることが大切であることを学びました。

「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。

                   主に感謝し、御名をほめたたえよ。」(詩篇 100篇4節)

さあ、讃美がどれほどわたしたちの信仰生活に活力を与え、あなたの状況を変えていく力であることを学んでいきましょう。

まず「讃美の祈り」とは何かを見てみましょう。

「心からの祈りであるなら、どんな形式の祈りでも神の力が私たちのうちに入りこむためにドアを開きます。しかし、讃美の祈りはどのような懇願の祈りよりも神の力を解放します。」

 と「獄中からの讃美」の著者、M・キャロザース牧師は教えています。
「讃美の力」、即ち神に対する讃美と感謝を通して神の力が現わされ、解放されてくるというのです。イザヤ書の今日のみことばは、解放の宣言です。苦しみの中で、困難のただ中で、そのすべてのことを神に感謝し神を讃美した時、神の力が覆いこの奇跡的な神の力を体験した人たちのことが「讃美の力」の各章に紹介されています。その中から、一つの証しを紹介します。

ジムの父は三十年もの間、アルコール中毒でした。その三十年間、ジムの母は神のいやしを祈り続けていました。ジムが成長してからは、彼とその若い妻もともにそのことで祈っていました。しかし目に見える成果はありませんでした。ジムの父は自分の飲酒が問題だという事を認めようとしませんでした。そして、もしだれかが彼に向かって宗教のことを口にしようものなら、怒って座を立ってしまうのでした。

 ある日ジムは、集会で私の話を聞きました。それは、私たちが自分を苦しめている状況を変えてくださいと神に願うのでなく、私たちの身に起こるあらゆる事について神を讃美し始める時に、さまたげが除かれて神の力が働きはじめるということについての話でした。ジムはその集会の録音テープを家に持ち帰り、友人たちに何度もくり返し聞かせていました。そんなある日、ふと彼は、自分が父の今の状態を感謝して、神を讃美しようと努めたことはまだ一度もなかったということに気づきました。彼は熱心にその事を妻に話しました。

 「お父さんのアルコール中毒のことを神さまに感謝しよう。いまの状態がお父さんの人生に対する神さまのすばらしいご計画のうちにあるのだから、神さまを讃美しようじゃないか」

 この時から、神が働き始めました。それから数週間のうちにジムの父は自分がアルコール中毒であることをはっきり認めました。そして、キリストに助けを求め、完全に癒されてしまったのです。今では彼は家族と一緒になって神をほめたたえ、神を讃美するとどのようなことが起こるかを証しするものと変えられました。

ジムは言いました。「わたしたちは30年間も父を変えて下さるようにと神に祈っていました。ところが多々一日、わたしたちは現状をそのまま感謝し、そのことを神に讃美しただけで、このようなことが起こったのです」と。(M・キャロザース著「讃美の力」より)

ここで「讃美する」という言葉は、「賞揚する、激賞する、誉を帰する、喝采する、賛成を表明する」という意味です。ですから、讃美するとは、あることについて賛成を表明し、積極的に肯定することなのです。

賛成を表明するといえば、そのことを受け入れる同意することを意味します。ですから、困難であれ、感謝な出来事であれ、あるときに起こっていることを人生における神の計画の一部として受け入れて是認することを意味します。また、感謝と喜びは切り離すことの出来ないものです。喜んでいなければ感謝もできません。そんな理由で讃美は感謝と喜ぶことの両方を含んでいるのです。「主(神)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの願いをかなえてくださる。」とある通りです。

自分が悩まされていること、不幸な出来事や、悪習慣のことで、神を讃美するのは、みこころ(神の思い)ではないと思われるかもしれません。しかし、み言葉は、すべてのことに感謝しなさいと言います。(第一テサロニケの手紙5章16-18節に)そして、このことを神は願っておられるのです。そこには例外はないのです。み言葉の約束は、神のことばを信頼して行動に移すとき、そこに神ご自身が働かれると言っています。ですから、ここで、ありのままの状況を讃美し感謝することは、わたしの達のかかえている問題を、神さまにそのまま委ねることになるのです。神の手に渡すことです。簡単なようですが、神への信頼(信仰)がいります。

聖書を見てみましょう。旧約聖書の第U歴代誌20章1〜30節にユダの王ヨシャパテのことが記されています。(長いのでここには載せていませんが、是非、歴代誌、列王記は読んでみてください。歴史小説のように面白いですよ。)

 それでは何が起こったか説明します。

 ユダの王ヨシャパテは、モアブ人、アモン人を中心とする連合軍が攻めてきたことを聞いて恐れ、主の助けを求めました(1-4節)。ヨシャパテ王はこの恐怖によってむしろ健全な信仰に戻されました。恐れや不安な出来事がないと、私たちは神に頼らないでも自分の力で歩めるかのように高ぶってしまうのです。

 おびただしい敵軍を前にして、ヨシャパテ王は自分の無力さを心から認めつつ、新たに神への信仰表明を祈りの中でしています(5-12節)。そのヨシャパテ王とともにユダヤの人々が心合わせて主に祈っている時に、アサフ族出身のヤハジエルに主の霊が臨みました(14節)。アサフ族はダビデ王時代に讃美の奉仕をするように選ばれた民族です。その讃美奉仕者であるヤハジエルを通して、主はヨシャパテ王と民たちを力づけました。ヤハジエルはおびただしい大軍に目を留めず、主の戦いを見に行くため出陣するよう王と民に語りました(15-17節)。状況が悪ければ悪いほど、主の働きは明らかにされます。私たちの側には全く勝ち目がない戦いの中で、主が戦って圧倒的勝利を私たちに見せて下さるのです。「主が戦って下さる」事実を私たちに見せるため、主はあえて人の力や知恵ではどうすることもできない状況に追い込まれるのです。でもそこで「主がともにおられる」ことを信じて一歩踏み出してみる時、「私が戦うのではなく主が戦って下さる」ことを知らされます。

ヨシャパテ王がこの戦いのために備えたことは、讃美する者たちを選んで整えることでした(21節)。ユダ軍の唯一の戦いの武器は神への讃美でした。兵士たちより前に讃美するメンバーが「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と讃美しながら、おびただしい敵軍に向かって行進していっただけです。すると主が介入して伏兵を設け、最終的には連合軍が同士討ちをするようにされ、ヨシャパテ王率いるユダ軍は圧倒的勝利をおさめます(22−23節)。ユダ軍は全く戦わず、ただ主を信じて讃美しながら出陣していくだけで勝ったのです。主をほめたたえながら進んでいく時には、こちらがどんなに弱くても、ヨシャパテのように恐れおののいていても、主が戦って下さるから大丈夫なのです。

 私たちには生きている限り様々な戦いがあります。恐れや不安な出来事、難しい問題、病や痛み、罪との戦い……など。戦いを前にして自分の無力さを知り、気落ちすることがあります。でもそこで無力な自分に目を留め続けるのではなく、「ただあなた(神)に目を注ぐのみです」(12節)と主を仰ぎ、主を讃美しながら踏み出していく時に、主がどのように戦って下さるかを見せて頂けるのです。戦いがあればあるほど、主への讃美を武器として前進していきましょう。主を信じ、主の偉大さと恵みを思い起しながら讃美していく時に、確かに主がその戦いに介入して勝利を与えて下さる事実を見せて下さいます。あらゆる戦いは主の戦いです。そして私たちの武器は讃美です。

ここでは、紹介しませんが、ヨシュアも神のことばに従い、主を讃美することを通して、戦わずしてエリコを攻略したことが、ヨシュア記6章に記されています。

まとめになりますが、神が生きて働いていることの証拠は、その事実の前に気づかされた人がまず「悔い改めに導かれる」ことです。その感動から讃美が生まれ、今までの自分の霊(古い自分)に生きるのではなく、キリストの霊(新しいいのち)に生きる決心が生まれることです。主の新しいいのちに預かった生き方が生まれている教会は神が生きておられる証拠です。不幸な運命も不条理な結果も神の最善の働きを受けているのだと、感謝し讃美しましょう。あなたは、そのとき、神が生きておられ、讃美の衣を着せられ、あなたの人生に神が関与してくださることを体験していきます。

「イスラエルの讃美の上に座しておられる聖なるお方」とダビデは詠いました。

教会が礼拝において讃美を惜しまなければ、教会は神様から大きな祝福を受けるでしょう。形式的に讃美するのではなく、聖霊様に導かれるままに、讃美する礼拝は神がどんなに喜ばれることでしょう。この礼拝は教会だけではありません。皆さんが日々の生活で、主を礼拝し讃美していくとき、主の豊かな恵みはあなたを包み込んでいくことでしょう。

 神は私たちの心からの讃美を喜ばれます。そして、この讃美は祝福の源であることを覚えましょう。

 わたしの好きな賛美の曲にジャック・ヘイフォード牧師の書いたマジェスティーがあります。この曲は、今、世界中の教会で讃美されています。日本人教会としてNashvilleで協力参加した2000年6月のNashvilleビリー・グラハム大会にも、いちばん最初に数千人の聖歌隊によってこの曲が讃美されました。主を褒め称えるすばらしい讃美の歌です。

マジェスティー(神の小羊)

       神の小羊イエスに  栄光と勢いと

          知恵と力と富と誉れと賛美をささげよう

          天の栄光の御座の前に

          みんなひれ伏し崇めよう

          全地のすべての民よ  十字架の御業をたたえよう

 あなたの人生が主への讃美で満たされ、黙示録にある聖徒の讃美が地上において実現するようお祈りいたします。本当にあなたは、この地上において、讃美の力が体験できます。主は生きておられます。