「救いの確信」 聖書箇所:ヨハネの福音書524

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

神を見る
ある男とその息子が山へ遠足に行きました。この親子と契約したベテランのガイドは、親子がこれまで出会ったこともない深い森の奥や、山々の最も美しい場所に案内しました。
年老いたガイドは、美しい場所やすばらしいところを次々と示しました。そのような場所は、そのあたりをただ通り過ぎるだけの人びとは眺めようともしないところでありました。若い息子は周りにそれほど多くのすばらしいものを見つけるガイドの能力に心を奪われていました。
ある日、青年はそのことに心を動かされて叫びました。
「あなたがここで神さまを見ることができるかどうか、何か賭けてもいいよ」
年老いたガイドは笑って答えました。
「坊や、年をとるにつれて、ここで神さまでないものをだんだん見るのは難しくなってきたんだよ」

 このたとえ話は神を見たいと望む者には、神はいつも自分を現わす準備があるという教訓を教えているように思われます。人類の歴史を見ると、自分の理性で「神を見たい」と思った人たちがいました。哲学者です。一方、生ける神を見出し、私たちが「神の生けるみことば」と呼ぶ聖書を通して、神と語る人たちもいたのです。
ホアン・カトレット 著 / 高橋 敦子 訳 「いのちの触れ合い」(新世社)より

また、このような話があります。
昔、ロシアに無神論の学者がいました。ある日、彼はある大会の会場で人々に、神は絶対に存在しないと論じました。会場にいた人々も、彼の主張は理に適っていると思いました。学者は天に向かって、「神よ、あなたに本当に力があるなら、どうぞ、ここまで降りて来てください。聴衆の面前で私を殺すことができれば、私も神がいることを信じよう」と言いました。学者はわざとその場で、静かに数分間待ちました。勿論、神がそこに降りてくることはありませんでした。すると、学者は周りを見回して、聴衆に向かって、「皆さんも分かったでしょう。神などまったく存在しないのだ」と決め付けました。
 そのとき、スカーフを巻いた婦人が学者に言いました。「あなたの理論は卓越しており、知識も豊かです。私はただの農村の婦人で、あなたに反論することなどできませんが、どうぞ、私の素朴な疑問に答えてください。私は何年もの間キリストを信仰し、神から与えられた恩恵を感じ、非常に幸せです。私は『聖書』を読むのが大好きで、読めば読むほど、私の心はキリストが与えてくださった慰めでいっぱいになります。なぜなら、キリストを信じる人は、人生にとって最大の幸福を得られるからです。仮に、私が死ぬ間際になって、神など存在しないことがわかり、キリストは神様の息子ではなく、聖書はまったくのでたらめだと分かったとしたら、生涯キリストを信じてきた私は一体何をなくすことになるのでしょうか?」
 学者は暫らく考え込み、会場も静まり返りました。聴衆は婦人の言うことはもっともだと思い、学者自身も婦人の単純な論理に驚きました。学者はしばらくして小さな声で婦人に、「あなたは何も失わないでしょう」と答えたのでした。
 婦人はまた学者に尋ねました。「素晴らしいお答え、ありがとうございます。もう1つ質問があります。仮に、あなたが亡くなる間際になって、神が本当に存在していることに気がつき、聖書に書かれていることが真実で、キリストが本当に神様の子であり、天国と地獄も存在していることが分かったとしたら、生涯神を信じなかったあなたは、何を損したことになるでしょうか?」
学者はじっと考えたまま、返す言葉もありませんでした。

 さて、今日のテーマは「救いの確信」です。

救われているという確信をもって生きるのと、確信を持たずに生きるのとでは毎日の生活が大きく違ってきます。確信のある者には平安と喜びがあるからです。

では、どうしたら救いの確信をもって、いつでも神の前に立つことができると言えるのでしょう。

そして、2000年前に、この地上に来られたイエス・キリストは、何をして下さったのでしょうか。そしてそれは、今の私たちとどういう関係があるのでしょうか。

 それを今日は、イエス・キリストの一つのみことばを手がかりに、味わいたいと思います。

先ほど読んでいただいたヨハネの福音書5章24節節に「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」とありました。

 「まことに、まことに」というのは、原文では「アーメン、アーメン」と言っているのですが、「これから、非常に大切な、本当のことを言うから、よくよく聞くように。」という意味です。

 では、ここでイエス・キリストが、非常に大切な、どのような内容のことを言っているかと言いますと、ここに3つの約束が語られています。この3つの約束は、私たちにはだれもが体験する、避けることのできない「死」ということに深く関わっています。

 人間は、皆「死」に縛られています。 その「死」には、3つの局面があります。

第一に、「霊的な死」
第二に、「肉体の死」と「死後の審き」
第三に、「永遠の死」

 ここで語られているイエス・キリストのみころば、この3つの死に一つ一つ見事に対応しています。

第一に、「霊的な死」に対して、「死からいのちに移っている」
第二に、「肉体の死」と「死後の審き」に対して、「さばきに会うことがない」
第三に、「永遠の死」に対して、「永遠のいのちを持つ」

イエス・キリストはここで、「私は、人間を縛る死を、そのあらゆる面で解決する」と宣言しておられるわけで、それが「まことに、まことに」の内容なのです。

 さてこのみことばで、私たちがそれを自分のものにする条件は何であると教えられているでしょうか。

 それは、一言で言えば、「信じる」ということです。

 「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は」とあります。

 ではそれは、いつ、私たちのものになると教えているでしょうか。

 信じた時です。今すでに信じているならば、すでに実現しています。「・・・いるのです。」という言葉が、それを示しています。

 キリスト教信仰で時々出会う誤解は、「私たちは、死んだら天国に行くのでしょう」という考え方です。あるいは、「死んだら、神様に救われる」という考え方です。

 イエス・キリストは、「死後の救い」はもちろんですが、それだけではなく、「今、ここで、実現している、確定している救い」を教えています。

 これに関連して、いくつか確認しておきたいことがあります。

第一に、「自分の救いの確信を持つ」ということです。

では、どうすれば救いの確信を持つことが出来、自分の救い、永遠の行き先について、私達は知ることが出来るのでしょうか。

 この点について、以下のような考え方に出会います。

1.救いは確信できない。死んでみないと本当に天国へ行けるのか、地獄行きなのかわからない。・・・もしそうだとすれば、人生の終わりは大変恐ろしいものとなるでしょう。

2.聖書を十分に学び、詳しく知ったなら確信できる。・・・そうだとすれば、誰も確信できないでしょう。これで十分とは誰にも言えないのですから。

3.イエス様を、自分の救い主と心から信じているなら、救われていると確信できる。・・・そうだとすれば、…すばらしいことです。

4.罪を犯さないような、立派なクリスチャンになれたら、そのときは確信してもよい。・・・これも、救いの確信は誰にも持てないことになります。

5.何か特別な経験をしたら確信してもよい。・・・こうおっしゃる方も多いのですが、神は神を求める人は御自身を見出すといわれていますが…そこには、信頼して求める心が必要です。ためそうとするものではなく・・・。

聖書の教える、またイエス・キリストの教える救いのあり方は・・・3です。

第二に、「救いの確信」というテーマを考える時、大切なのは、自分自身を顧みることが必要です。 えてして出てくる考えは、「では、あの人はどうだろうか」というものです。

 「福音に触れなかった人は?」「クリスチャンではなかったけれども善人だった人は?」・・・と色々と出て来ます。

 突き詰めて論理的に言えば、「他人の救いはわからない」のです。極端に言えば、見かけ上クリスチャンであっても、本当に救われているかどうかは「神のみぞ知る」の世界です。 しかし、自分自身については、「自分の救いは確信できる」のです。 それは、「信仰」によって、自分のものとなっているのです。

 では、「自分は救われている」と、何に根拠を置いて言えるのでしょうか。それは、「神と神の言葉は信頼できる」からです。その、神の言葉である聖書が、信じる者は救われている、と断言しているからです。

 誰かが、あなたに、「どうしてあなたは、自分が救われているなどと言えるのですか?」「どうして永遠の命を持っているとわかるのですか」と尋ねたならば、何と答えればよいでしょうか。・・・「神の言葉、聖書に、そう書いてあるから」です。
 救いの根拠は、「感情」ではありません。「思い込み」ではありません。そんなものは毎日変化するものです。そうではなくて、もっと客観的な、人間の外側の神の側に、救いの確かな根拠を、私たち達は持っているのです。

ではあなたは、救いの確信を持っておられるでしょうか。これが大切な質問です。

 もちろん、聖書を学ぶことも大切ですし、祈ることも、教会に行くことも大切です。 しかし、突き詰めれば、大切なのは「救いを得ること」です。救いの確信を持って、神と共に生きることです。

人が救いの確信を得るためには次の4つの段階を踏む必要があります。これを確認して、あなたも確かに救われていることを確信してください。

第一に自分が罪びとであることを認めることです。
自分は罪びとでありもう自分でどうすることも出来ないと気づかない限り、誰も救われたいとは思いません。しかし、このことは、自分が罪人であることを感じるかどうかではありません。しばしば、人は自分が罪人であることを感じませんし、認めようとしません。けれども、神は、「全ての人は罪人である」と言っておられます。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・」(ローマ人への手紙323節)とあるとおりです。

第二に、自分で自分を救うことは出来ないことを認めることです。
宗教心を持ったり、教会に通ったり、バプテスマを受けたり、献金をしたり、その他の宗教行事に参加することなどで自分を救うことが出来るわけではありません。

良い行ないをすること、たとえば施しや慈善、誠実な生活、あるいは、精一杯の努力をすることも、確かに良いことですがそれによっても自分を救うことは出来ません。数々の律法を守ることでも救われません。自分が自分の救い主になることは出来ないからです。救われるべき自分が自分を救うことは不可能です。この事をはっきりと知っておかなければなりません。すなわち、自分で何とか努力して自分を救おうという望みを捨てるまでは、救いはやってこないのです。「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(テトスへの手紙35節)

第三に、イエス・キリストが罪を負ってくださったことを信じることです。
イエス・キリストは、私たちの罪の代価を全て支払ってくださいました。主は私たちの負債を返済するために、あなたの身代わりに死を引き受けてくださったのです。イザヤ書の53章に次のようなことばがあります。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53章6節)

神と私たちの間には罪という超えることの出来ない大きな隔てがありました。この隔てをイエス・キリストは取り除いて下さったのです。今はもう、この隔てはなく、神の恵みを妨げるものは何もなくなりました。神は救いを無代価で与えてくださっています。ですから、あなたも救われることが出来るのです。

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ人への手紙6章23節)と聖書は言っています。あなたの罪はあなたを永遠の死に定めています。しかし、イエスがあなたに代わって、永遠の死の刑罰を引き受けてくださいました。彼が身代わりに死んでくださったのです。それは、あなたが生きるためです。

第四に、イエス・キリストをあなたの救い主と信じて受け入れることです。あなたは、キリスト(救い主)であられるイエスがあなたを救うためにあなたに代わってあなたの罪を背負い、ご自分の体でその代価を引き受けて、十字架の上で死んでくださったことを信じますか。
イエスを自分の救い主として信じて受け入れるなら、神はそのような人の罪を赦し神の子となる力を与えると約束しています。

「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」(使徒の働き1043節)とあるとおりです。

救いの確信を持って生きる、ということは、具体的にはどういうことでしょうか。 それは、私たちはすでに「天国人」であるということです。「すでに救われた者」として生きるということです。 つまり、「救われるため」に生きるのではなく、「救われた者」として生きるということです。これは、大きな違いなのです。

 天国というところは、「やがて行く」所でもありますが、「すでに今いる」所でもあります。「永遠の命」は、「やがて手に入れる」ものではなくて、「今すでに頂いている」もの、すでに始まり、すでに味わっているものです。

 クリスチャンは、やがて天国という素晴らしい所に行くという人がいます。これは正しいことです。しかし、そのために、今の地上の喜びを我慢しているというのなら、それは間違っています。

 地上において、すでに天国は始まっています。

 天国とは、神と共に生きる所です。

 地上で、今、すでに、神と共に生きるのです。

 それは、当然、素晴らしい喜びにあふれた人生です。

 それに比べれば、神を抜きにした人生というのは、使徒パウロのことばを借りれば、「ちりあくたのようなもの」とさえ思えるほど、神と共に生きる人生は素晴らしいのです。

 すでに救われた人生。やがて天国は、想像もつかないほど素晴らしいわけですが、その一端を、あるいは前味を、地上で味わって生きるのです。天を目指して。これがクリスチャン人生です。

 その本当の味わいを自分のものとするためには、救いの確信を持って生きることが、大切なことなのです。

 「すでに救われた者」として生きるということは、キリスト教を他の宗教から区別する大きな点です。

 他の宗教のほとんどは、「救われるために」生きるのです。

 聖書は「私はすでに、一方的な神様の愛によって、救われた。「だから、その神様の恵みに感謝して、喜びをもって答えよう。」という意味で、「善き業」をするように教えるのです。

 私たちは、神様に愛されて、ただ信仰のみによって救われた、この確信を持って生きることが大切です。それが、喜びにあふれた、いきいきした人生を生きるのに不可欠なことです。

 毎日を振り返る時に、そこに、すでに救われた者だけが味わえる喜びがあるはずです。それを神様に感謝して、日々を過ごして生きましょう。クリスチャンというのは、「クリスチャンだから、何をしなくちゃいけない」とか、「何をしてはいけない」というものではありません。すでに救われた、という大きな恵みの中に生かされる者として、喜んで「神のために何をする」「何をしない」と信仰の決断をしていく者なのです。そのようにしながら、ますます神様と共に生きる御恵みを味わって行くのです。

フィリー・ボスマンズは言っています。
「わたしにとって神を信じるとは、目の見えない人が太陽の存在を信じるようなものです。見ることができなくても、それを感じ、現実に体験しているからです。」

ひとつの祈りを紹介して、今日のメッセージを閉じたいと思います。

神はいつも神です。

愛そのもの

全能にして無限の愛そのものです。

神の不変の愛は

絶えず私たちの弱さを包み、

心をくまなく満たしてくださいます。

もしも私たちがそう望み、

身をゆだねるならば‥‥
マリー・テレーズ・ド・スビランの祈り「母に抱かれた子供のように」(新世社)より

イエス・キリストの下さった大いなる恵みを感謝しながら一緒にお祈りしましょう。