えっ、わたしも「罪人」

今日は聖書の大切なテーマのひとつ、「罪」についてお話します。皆さんは、「罪」とはどんなことだと理解しておられるでしょうか。聖書は、この「罪」の概念が理解できなければ、最も中心のテーマである「救い」についても理解することは難しいでしょう。聖書で言う「罪」と、私たちが日常使う「罪」という言葉は、意味が少し違います。英語では前者を「sin」、後者を「crime=犯罪」と区別します。
 新約聖書の原語ギリシャ語では「ハマルティア」で、本来は的外れという意味です。つまり、悪いことというよりは、神から離れて生きていることを指しています。とすると、聖書が示す罪は、神が私たちに望まれる行為や考えに反して行ったり、考えたりすることと言えそうです。聖書は、すべての人は罪を犯した、と言っています。罪は、私たちを神から引き離します。

イギリスの偉大な伝道者スポルジョンは「聖書はあなたを罪から離し,罪はあなたを聖書から離す」と言いました。では、神の目から罪と、人の目からの罪を比較して見ましょう。

人々は罪をしくじりだと言うが、神は痼疾病(長い間の悪い習慣)だと言われる。
人々は罪を機会だと言うが、神は選択だと言われる。
人々は罪を偶然の事故だと言うが、神は故意であると言われる。
人々は罪を恍惚なものと言うが、神は不幸だと言われる。
人々は罪を悪い癖だと言うが、神は不正なことだと言われる。
人々は罪を奢侈だと言うが、神は腐敗であると言われる。
人々は罪を自由だと言うが、神は束縛だと言われる。
人々は罪を大したことでないと言うが、神は悲劇だと言われる。
人々は罪を優柔不断であると言うが、神は執着であると言われる。

神は人間の罪をご自身で受けられ、「罪の報酬」である死をもって、私たちを救う為ににイエス様を遣わされました。

ヨハネの福音書の8章1〜11節に、このような記事があります。

けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。
 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこ  にいた。
 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」
そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

 律法学者とパリサイ人によって姦淫の場で捕らえられた女性が主イエスの前に連れてこられました。主イエスを告発する理由を得るためです。律法によれば、姦淫は石打ちの刑(皆が石を手に持って、いっせいに投げつけて撲殺してしまう極刑)です。しかしそれでは、愛のイエス様の教えに反してしまうでしょう。かといって見過ごしにするならば、律法違反となるでしょう。主イエスにとってどちらの答えも、律法学者とパリサイ人にとっては、訴える理由となったのです。彼らは主に罠をかけて、罪人として訴えようとしたのでした。 問い続ける彼らにようやく主が答えられました。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」  

このことばに、年長者から、ひとりまたひとりとその場を去って行きました。おそらく誰もが自分の心を顧み、そこに罪を発見したのでしょう。その場には、罪を犯した女性と主イエス様のみが残されました。唯ひとり裁くことのできる罪なきお方が言われました。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」  

このことばに送り出されて彼女の新しい人生が始まりました。

聖書は、厳しく罪を追求します。罪といってもいわゆる犯罪とは違い、心の中の罪をも含めて考えています。隣人を愛せない罪です。そんな罪の中に歩むならば決して幸せな人生を築くことができません。しかし、罪を犯さずに生きることは不可能です。私たちも罪を犯すものです。

神様は、そんな私たちの罪を厳しく追求し裁かれるべきでしたが、そうはされず、神は人間の罪を受けて死をもって贖うためにイエス様を遣わされました。そして、あなたの罪の代価の身代わりとして、御子イエス・キリストを十字架につけられました。

イエス様が死なれたので、私たちの罪は赦され、神と私たちの間のへだても取り除かれたのです。それゆえ、この事実を信じる者はどんな罪をも赦され神の子となって新しく生きることができるのです。

 あなたも、キリストのもとに来るなら、必ず罪の重荷から開放されるでしょう。これが神と人との新しい契約、「罪の赦しによる救いの福音」である新約聖書の「契約」の意味なのです。

「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)