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「永遠に続くもの」 聖書箇所:コリント人への手紙第二4章16〜18節
[新改訳] コリント人への手紙第二
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
[新共同訳] コリントの信徒人へ手紙二
4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
4:17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
新年、明けましておめでとうございます。今年も新しい年を迎えることが出来、皆さんと一緒に神さまを礼拝出来る恵みを感謝いたします。
昨年は、世界中が大きな災害に見舞われた年でした。アメリカではフロリダのハリケーンによる大きな被害、日本では台風による水害、地震と各地で大きな被害が出ました。そして、昨年暮には、スマトラ沖地震による大津波の発生で、インド洋に面する多くの国で沢山の人々のいのちが一瞬にして奪われ、今も行方不明の人々、すべての資産を失った人々、怪我をしている人々など被害に遭った人々が180万を超えると報告されています。世界中からボランティアや支援活動が行われていますが、これらの被災地の復旧が国際協力によって速やかに行われるよう願っています。昨年も戦争によって莫大なお金が浪費されましたが、人道支援や国際平和のためにお金が使われるよう、各国の指導者のためにとりなし、祈ってまいりましょう。
皆さんは2005年のスタートをどのように始められたでしょうか。
本来、神が造られた人間の本当の喜びは、人が喜ぶことを喜べるところにあります。今年は元旦から、恵子姉、アリスンさん、範子さんの大きな協力をいただいて、ボランティアをする機会が与えられました。1月1日だというのに、私たちの予想を超えて、沢山の方々がいらしてくださり、年初の初餅を喜んで召し上がって下さったことをとてもうれしく思いました。心から奉仕してくださった兄姉に感謝いたします。
一昨日、光穂たちの飛行機がキャンセルされ、昨日朝に帰ってきました。また瀬川兄は夕方の便で帰ってきました。とても祝された意義のあるカンファレンスであったようです。近いうちに証しをお聞きしたいと思っていますが、カンファレンスに昨年来られた方々から、瀬川兄の信仰が成長していると光穂が聞いたらしく、とてもうれしく思いました。このように、送り出した兄姉の信仰を、人々が励ましてくれたことを感謝します。
さて、今日の宣教の箇所になりますが、聖書の中のお正月、つまり一年の始まりを見てみると、イスラエルには二種類の暦があったことがわかります。一つは、日本で言うと、秋から始まる暦で、人々の社会生活、農作業を数えるのに都合の良い暦でした。もう一つは、春から始まる暦で、イスラエルの民がヨセフが死んで400年ほど経過し、時のパロによって苦しめられたエジプトでの圧制から開放された事を記念して、一年の始まりとし、一年を数える宗教生活の暦でした。日本でも年度始めは4月のですが、ちょうどイースター時期と重なります。
旧約聖書の出エジプト記の出来事は、私たちクリスチャンにとっては、イエス・キリストの十字架の救いを象徴しています。ですから、イスラエルの人々にとって、宗教的な意味での一年の始まりというのは、自分たちが救われた日から時を数えるという意味があったわけです。
ここで、聖書の暦の考え方から教えられることは、新年を迎えるとは、ただ単に時間が過ぎて行って、一年が終わり、また新しい一年が来るというのではなく、そこには、神様の救いによって新しくされそれぞれの人生における疑いのない事実があり、信仰の歩みの土台があって、私たちの新しい年も神様から与えられた恵みによって、始められているということです。
16節に「ですから、私達は勇気を失いません」(16節a)と始まりますが、現代のような困難な時代にあって、神さまがおられる故に、落胆せずに希望と勇気を持って歩むことの出来る秘訣を、今日、神様から頂きたいと思っています。
今日の聖書の箇所は、時の流れに従って、私たちには、過ぎていくものとそうでないものの二つが同時にあるということを教えています。
過ぎていくものとそうでないものがある。そのことについて、パウロはここで、三つの対比を並べて、それを描き出そうとしています。それは、第一に、「外なる人」と「内なる人」という対比です。第二の対比は、一時的な「軽い艱難」と、永遠の「重い栄光」です。そして、第三の対比は、一時的な「見えるもの」と、永遠の「見えないもの」です。
順を追ってみていきましょう。
(1)「外なる人」と「内なる人」
16節の後半をご覧ください。「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(16節b)
外なる人は衰えていく。しかし内なる人は日々新たにされているとあります。
外なる人というのは、生まれたまま、成長し、大人になり、老いていく人間の姿ということです。
生まれたままの人間は、悲しいかな、時を経ると共に次第に衰えていきます。これは、誰しも否応なしに実感させられる神によって定められた人間の生です。
この手紙を書いている時のパウロは、精力的に町から町へと伝道旅行を続けていたわけですが、恐らく年齢は40才代の後半だろうと思います。聖書を読んでいると、パウロはあまりにも精力的に世界宣教をしていたので、エネルギーの固まりの様に見えますが、パウロも内なるものは燃えていても肉体の衰えを実感していたのではないかと思わされます。
年を経るとともに足腰は弱り、目も衰える、血気盛んな若い頃のように無理がきかなくなってくるというようなことを味わっていたのでしょう。ですから、あの時代に伝道旅行を繰り返して宣教をしていたエネルギッシュなパウロにも、16節のことばには少し親近感も湧いてくるでしょう。
ここで、外なる人というのは、目に見える体のことだけではなくて、更に、人間が生まれつき持っている
全ての能力・力をも指しています。心の力、意志の力、知性の力、ものごとを覚える力等、これらも衰えて、以前のように働かなくなっていく。また、感性、や若々しい冒険心も皆、いずれは誰でも衰えていくと聖書は言うのです。これらは時と共に過ぎ去って行くものなのであり、それが私たちの現実でなのです。
しかし、聖書はそれでも、私たちの「内なる人は日々新たにされる」と言うのです。
内なる人というのは、神様によって私達に内に作り出された、新しい人です。
外なる人は、生まれつきの古い人。内なる人は、キリストを信じる信仰によって救われ、内住のキリストの御霊(聖霊)によって造り出される新しい人、永遠の命を持った人です。私たちの内には、この二種類の人が同居しているというわけです。
そして、内なる人、新しい人は、ただ単に、神様が作り出して下さった、というだけではない。また、
外なる人のように、時と共に衰えていくのでもなく、日々新たにされていく。内なる人は日々成長し、永遠の神様に近付いていくのだというのです。 「外なる人は衰え、内なる人は日々新たにされる」これが第一の対比です。
(2)一時的な「軽い艱難」と、永遠の「重い栄光」
17節をご覧ください。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(17節)
今の時の軽い艱難と、永遠の重い栄光という対比。これが2番目の対比です。
聖書は、私たちが人生において出会う艱難は軽く、それに替えて神様はやがて重い永遠の栄光を下さるのだというのです。私たちは、人生において皆艱難に出会います。その艱難は、私たちにとってそれぞれ大きな課題であり、重い重い重荷であります。しかし、聖書はそれは軽いというのです。
パウロは私たちの苦しみ、艱難を知らないからそのようなことが言えるのだという人もおられるかも知れません。しかし、皆さん、人間の中でパウロほど、重い艱難に満ちた人生を送ったクリスチャンを私たちは知らないのではないでしょうか。彼の味わっていた艱難とは、どのようなものであったでしょうか。同じ第二コリントの11章をお開きください。そこには、このように書かれています。
[新改訳] コリント人への手紙第二
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。
11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
11:30 もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
11:31 主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。
11:32 ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕えようとしてダマスコの町を監視しました。
11:33 そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。
パッションの映画を観られた方はご存知のように、イエス様の受けられた鞭打ち、あれが39回の鞭打ちです。皮膚が裂け、血が飛び散るような拷問です。パウロはあのような鞭打ちだけで5回も受けているのです。パウロは、このような想像を超えるほど多くの艱難に遭いながら、それを軽いと言っているのです。これは驚くべき言葉ではないでしょうか。 私たちの目には、どう見たって重すぎりほど重い艱難です。何故、パウロは、軽いと言うのでしょうか。パウロが「軽い」というのには、確かな根拠があったのです。それが「重い永遠の栄光」なのです。神さんから受ける「重い永遠の栄光」。これに比べれば、今の艱難は、いかにも軽いというのです。この対比がここでのポイントです。
今の私たちの味わう艱難は、私たちにとっては重く思えますが、しかしパウロの艱難に比べたら、随分軽いのではないでしょうか。ひょっとしたら、たいしたことでないことを思い悩んで艱難だと悩んでいたということはないでしょうか。しかし、パウロのこの重すぎるように見える艱難も、天でクリスチャンを待つ「重い永遠の栄光」に比べれば、軽いというのならば、皆さんいかがでしょう。私たちは、天で私たちを待つ永遠の栄光の素晴らしさをわかっているでしょうか。そこに目をとめ、その重さがわかる時に、今の地上の艱難は軽い、ということに目が開かれるのでしょ う。えてして、地上の、今の艱難にばかり目を奪われていると、それがわからないのです。そこから目を天に上げ、天の重い栄光を、永遠の栄光を仰ぎ見ようではありませんか。しかもこの節を良く読みますと、「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて・・・」とありますように、この艱難の経験が、私たちの内に働いて、重い永遠の栄光をもたらすのだということが教えられているのです。それは、これらの艱難は私たちにとっての益となるように働き、神様は全てを最終的に生かして下さるお方なのです。艱難も、栄光も、私たちの益になるために、どちらも神様から与えられていたわけです。
ですから、私たちは、 失望、落胆せずに「勇気」をもって、今年どのような状況が私たちに待っているとしても、それを乗り越えて生きて行こうと励まされます。すべてが私たちの為なのですから。
「今の時の軽い艱難」「重い永遠の栄光」これが第二の対比でした。
(3)、一時的な「見えるもの」と、永遠の「見えないもの」
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは 一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(18節)
見えるものと見えないもの。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くといっています。見えるもの、とは、この地上の全てのことでしょう。そこには私たちにとって、良いと見えることも、良くないと見えることもあります。しかし、どちらも一時的なものだというのです。良くない事も過ぎていくのであり、良い事も過ぎていくのです。そればかりではない。見えるものの他に、見えないものもあるのだと言っています。そして、その
見えないものの方が、永遠に続いていく、本当のものなのだというのです。
では、いったい、見えないものとは何でしょうか。今日のみ言葉で言えば、外なる人は、見える。内なる人は、見えない。今の艱難は見える。重い永遠の栄光は見えない。つまり、今日の3つの対比は、実は同じ事を3つの側面から描いていたわけです。見える方のものである、外なる人、今の艱難、それらは全て一時的であるが、見えない方のものである、内なる人、永遠の栄光はいつまでも続くのです。他にも約束されていて見えない神様から与えられるものが思い浮かぶでしょう。天の御国、神の国、永遠の命、父なる神様、主イエス・キリスト、聖霊なる神様、…全てそういう大切なものは見えないのです。見えないから、信仰をもって受け止めなければならないように、神様はされたのです。そういうものにこそ、目をとめて生きるべきだと、聖書は教えているのです。
イタリアのミラノの寺院の入り口に三つの興味ある言葉が刻まれています。その一つは、ばらの花輪が刻まれ、その下に「すべての快楽は、一瞬のものにしかすぎない」と書かれています。美しいバラの束は、気持ちを明るくし、心を快活のしますが、すぐに枯れて、しぼんでしまいます。人生の多くの楽しみもこのようなものです。すぐに色あせてしまい、悲しみだけを残します。第二は十字架がほられて、「すべての苦しみも、一瞬のものにしか過ぎない」と書かれています。どんなに苦しいことも、やがて過ぎ去ります。そして苦しみの雲に隠れていた太陽は再び輝きます。夜が明けが来ると、長い夜の痛みは間もなく忘れ去られます。第三は「大切なのは永遠だけである」という言葉です。
この彫刻家はやがて過ぎ去るこの世のものから永遠に続く価値あるものへと目を留め、人生の設計を立てるようにという教訓を残しました。
イスラエルの人々をエジプトの奴隷から解放し、カナンの国に導いた偉大な指導者モーセは、永遠の価値に目を留め、人生の設計を立てた人です。彼について聖書のなかに、
[新改訳] ヘブル人への手紙
11:23 信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。
11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
と書いてあります。モーセは正しい選択の結果、彼は今日、博物館の中に眠るミイラとしてではなく、永遠のいのちに復活した者として、今もキリストの御国に生きているのです。
皆さん、ここに、目には見えなくても、確かに存在しているものがあります。決して過ぎ去らない、古びない、むしろますます新しくなるものがあります。モーセはそこから目を離しませんでした。ダビデもマリアもヨセフもペテロもそしてパウロも。
主にある皆さん、今日も私たちの内なる人は、聖霊の働きによって、また一歩新たにされていきます。そしてその歩みの果てには、はかり知れない重い栄光が用意されているのです。今日はその1年の最初の主日です。お一人お一人が永遠に根ざして生きる生き方を、天に目を据えた生き方を選び取っていけるよう、ご一緒にお祈りしましょう。
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