感謝のいけにえ(感謝の祈り)聖書箇所:ルカによる福音書18章9-17節

[新改訳]  ルカの福音書             
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
18:15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
18:16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

今週は、ここアメリカでは収穫感謝祭の週です。アメリカにおける収穫感謝祭の由来は、17世紀の英国清教徒たちによる、大陸移住の時にさかのぼります。彼らが苦境の中にいたときに、インディアンが彼らの生活を助けました。そして、収穫物が与えられたことを感謝するために、インディアンの人たちを招いてお祝いをしたことが、この祭りの始まりです。

聖書の中に、実は収穫祭のことが記されています。主がモーセにこう仰せになりました。
「また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない。」(出エジプト記23章16節)

神さまは、荒野の中にいたイスラエルの民に、彼らを乳と蜜の流れる土地に導き入れられることを約束され、そして、その収穫物をもって主に対して祭りを持つことを命令されました。春には、大麦の収穫時期に、初穂の祭り(過越祭の時)を行ないます。そしてその50日後には、小麦の収穫があり五旬節(ペンテコステの時)を祝います。そして秋になると、ぶどうやオリーブ、いちじくなどの実を刈り取ります。その後に、「仮庵の祭り」とも呼ばれている収穫祭を持ちます。こうして、イスラエルの民は、約束の地で主が収穫をもたらしてくださることを認め、主に感謝をささげ、喜び祝うのです。

収穫は、いのちの現われであり、天地万物を造られた主なる神さまによってもたらされるものです。人がいくら努力しても、決して命を造り出すことはできません。私たちには、朝顔の種ひとつ創り出すことはで来ません。そこにいのちを与えられたのは神さまです。聖書では、しばしば、神のいのちの現われとして、収穫についての表現があります。

使徒パウロが、死者の復活について語っているとき、このように言いました。
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」(コリント人への手紙第一15章20-21節)
 キリストが、死者の中からよみがえられました。そのため、キリストを信じて、キリストに結びつけられた者もまた、よみがえりを経験します。大麦の初穂が、すべての大麦の穂の代表であるように、イエスさまの復活が、信者たちの復活の代表として、第一の方となられたのです。我が家も、娘の名前は光の子の初穂であることから光穂と名付けたのですが・・・。

他の箇所では、御霊によって新生したクリスチャンたち自身が「初穂」と呼ばれています。
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(ローマ人への手紙8章23節)

世界は、アダムが罪を犯したときから、悪魔の支配の中に手渡されました。しかし、キリストが世に来られて、ご自身の血によってこの世を神のものとして贖われました。そして、イエスさまが再び地上に戻って来られるときに、自然界などの被造物は回復され、神が初めに意図されていた世界に変わります。けれども、その前に、私たち人間が御霊によって、キリストにあって新しく造られたのです。そのため、ここではクリスチャン自身が、被造物の新しい創造に先立つ存在として、「初穂」と呼ばれているのです。

さて、今日の聖書の箇所からですが、ここに二人の人物が登場します。一人はパリサイ人であり、一人は取税人です。言い換えれば、人から見るに立派な行いと生活をしている人と当時罪びとの代表の職業のひとつであった取税人でした。彼らは、ユダヤ人でありながら同胞からローマの税を集めて、それも余分に集めて人々から蔑まれていた人でした。

二人の祈りを見ていきましょう。そして、この祈りを通して主が語っておられることに、まず耳を傾けたいと思います。

祈りは、たとえ感謝の祈りであっても、神に聞き入れられる祈りと、聞き入れられない祈りがあります。そのことを理解するために、パリサイ人の祈りと取税人の祈りという二つの祈りをわたしたちの前に見せてくれます。私たちは、祈りを通して神に出会い、神との対話を持つことが出来るものとされた者です。しかし、どのように神に祈るのかという、祈りを教えられると言うことは信仰の基本であり、いのちを得るか失うかの生命線にかかわることです。

 パリサイ人の祈りは感謝の祈りです。感謝の祈りをすることがどんなに大切なことか、主はそれをどんなに喜んでくださるかは、疑う余地はありません。しかし、この人の感謝の祈りはひとり言に終わっているのです。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
 神を愛し隣人を愛する生活の見本のような生き方ができていることを感謝していますが、ここには自分の誇りをアピールするだけで、神のあわれみや隣人の支えについての認識はありません。神と隣人不在のひとり言の「感謝」の祈りです。

 一方、取税人の祈りですが、取税人が祈ることがあるということ自体、当時のユダヤ人の常識からすれば衝撃的なことなのです。とpころが、この人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。と記されているように、自分を罪あるものと認め、悔い改め、主の憐れみを求める祈りをしています。「神さま、罪人のわたしを憐れんでください。」と。

 けっして、感謝の祈りよりも悔い改めの祈りの方が正しい、聞き入れられる祈りと言っているのではありません。どちらの祈りも大切です。しかし、この取税人の祈りは、真に生きている神と向かい合っているのは確かです。そして、神に立ち帰った罪人として、ひたすら憐れみを求めているのです。主イエスさまは、この二人の祈りで聞き入れられたのは、後者の方だとはっきりと語られました。主はここで、わたしたちの祈りの中に、この二種類があること、つまり感謝をしているが独り言になる祈りと、罪人であっても真に生きている神と向かい合う祈りがあることを知っておられます。

この取税人「主よ、憐れんで下さい」の祈りは、「キリエ・レイソン」といって、教会の最も古い祈りとして多くの人が祈ることばになっていきました。私たちが礼拝の中で唱える「主の祈り」も、「主よ、憐れんで下さい」という祈りもまたひとり言になる可能性を含んでいます。こころをどこに向けているかが最も大切なことです。このことを念頭におきながら感謝の祈りあるいは感謝のいけにえについて学んでいきましょう。

ダビデ・チョーヨンギ博士は「365日のマナ」という日々のみことばの中でこのように語っておられます。

詩篇50篇23節をお開きください。

「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」 (詩篇 50:23)

 私たちが神にささげる感謝のいけにえには絶大な力があります。特に、私たちが人生の暗い道を過ぎるとき、神に感謝をささげるなら、驚くような奇跡が起こり、私たちの暗い環境が取り除かれ、神は私たちを明るいところへ導いて下さるのです。感謝のいけにえがこのように威力を発揮するのは何故でしょうか。

  まず第一に感謝は、自分自身の力と知恵に頼ることのあきらめと神への従順を意味するからです。皆さん、砕かれた人だけが暗い夜を通過するときにも感謝することができるのです。砕かれることなく、かたくなで強情な心を持った人は、夜を通るとき、恨んだり、溜息をついたり、不平を言います。今日も神は、砕かれた人を捜しておられます。特に人生の暗く長い夜を過ごすとき感謝する人は、砕かれた人、降伏する人です。神はこのような人を決してお見捨てになりません。

 第二に、感謝は、全知全能でどこにでも臨在して働かれる神の摂理を、すべてのことについて受け入れるという信仰告白です。そして感謝のいけにえが奇跡を持って来るもう一つの理由は、感謝こそが期待を伴った希望の表現だからです。たとえ目に見える現実は暗く、手にするものがなくても、神の愛が私たちを絶対に捨てることなく、とらえてくださり、暗い夜を通ることによりもっと大きな祝福をくださるという信仰と希望の表明、これが感謝のいけにえを威力あるものとする要素なのです。ですから、聖書にも、先ほど読んだ詩篇には、感謝のいけにえをささげる人に救いが来ると記されています。それにもかかわらず、多くのクリスチャンが、このような霊的な秘訣を使えずにいます。人生の失敗や失望が襲って来て魂を身悶えさせる暗黒の夜を過ごすとき、感謝を捧げましょう。感謝はあなたが砕かれていると言う証拠であり、神にすべてをまかせるという証拠であり、どのような逆境にあっても神が初めと終わりになってすべてを摂理しておられることを信じる証拠です。また、すべてのことが働いて明日は今日よりも良くなり、来年は今年よりも良くなることを信じる信仰告白です。

 こういうわけで、感謝の中には驚くほどの力があるのです。感謝だけが、私たちを長く暗い夜から導き出し、明るい太陽の輝く人生の朝へ案内してくれるのです。と・・・・。

 15節から17節に、子どもたちをイエス様はどのように扱われたが記されています。

クリスチャンの親の最大の関心と責任は、後の時代につながる信仰の継承を成し遂げることです。「子供の祈り」と題したスペイン語の文章があります。ラテン・アメリカのどこかで書かれたものらしいです。ここに、小さな子供たちの思いの祈りを紹介したいと思います。
 
 神さま、ぼくは、あなたが、せかいじゅうの子どもたちをまもってくださる、いいかただと知っています。
 神さま、とってもたいせつなおねがいがあります。
ぼくをテレビにしてください。 
 そうすれば、お父さんとお母さんは、テレビとおなじくらいぼくのことをたいせつにしてくれるでしょう。
  そうすれば、お母さんが大すきなドラマをみたり、
お父さんが大すきなニュースやスポーツをみるのとおなじくらいねっしんに、ぼくのことをみてくれるでしょう。
  そのときぼくは、アナウンサーのようにはなしたいな。
なぜって、アナウンサーがはなすとき、いえ中がだまってねっしんにきくんだよ。
だあれもおはなししないんだ。
  テレビがこわれたとき、お父さんとお母さんは、すぐにしゅうりやさんをよびます。
ぼくにも、そんなふうにしてほしいな。
  ぼくは、テレビになりたい。
お父さんとお母さんのいちばんの友だちや、ふたりが大すきなドラマのしゅじんこうになるために。
  かみさま、どうかぼくをテレビにしてください。たった一日だけでいいから…。

もうひとつ『子どもに信仰を伝えるための20章』(ジョン・M・ドレッシャーという書物があります。その中から「感謝を身につける」より紹介いたします。

 息子のロンが三歳の時です。食事の感謝がしたいと言いました。私たちは喜んでそうさせました。彼はちょっと頭を下げてきょろきょろと目を動かしながら、一つ一つの物に対して感謝の祈りをささげました。「神様、お皿を感謝します。フォークを感謝します。ナイフを感謝します。お水を感謝します。パンを感謝します。」 テーブルの上のものから、部屋の中にあるものへ。長く続くお祈りに、ベティと私の忍耐は試されたものです。

 その後、私はよく、その祈りのことをあれこれと考えました。息子は今や父親です。男の子が二人、女の子が二人います。上の子はすでに大学生です。ああいう長い祈りはその後なかったと記憶していますが、彼の祈りはいつも感謝の霊に満ちていました。

 友人のシェリルが、二歳半になる息子がクリスマスの時に祈ったことを語ってくれました。「イエス様の誕生の物語を読んで、それから一人ずつ感謝の祈りをささげたのよ。ヨルダンから始めたんだけど、あの子ったら敬虔そうに手を組みながら、目はずっと部屋のあちこちを見て動き回っているのね。それでこう祈るのよ。『ありがとうございます。クリスマスツリーを、光をありがとうございます。プレゼントをありがとうございます。天使をありがとうございます。クリスマスツリーをありがとうございます。そしてシャツをありがとうございます。アーメン。」

「イエス様のことは忘れて、クリスマスツリーのことは二度も感謝したわ。それと、私たちが思いもつかなかった下着にも感謝をささげたのよ。」

 クリスチャンの親として、子どもたちに感謝の心をもってほしいと思います。感謝の心は、幸せな生活と人間関係に深くかかわっています。あまり早くからそのような態度を身につけさせようとすることはできませんが、幼い時は、感謝の心や態度を教える最もよい時のように思います。では、どうしたらよいのでしょうか。

 感謝の心は教わるというより、「身につく」ものです。感謝の気持ちというのは、態度にほかなりません。子どもたちは、私たちの雰囲気や態度、そして表現に敏感ですが、感謝の態度もすっと身につけます。子どもが食卓の祈りに加わり、それを楽しむようになるのが、いかに早いものであるかを見てごらんなさい。彼らは感謝の心を感じたり、聞いたりすると、自動的にその態度を身につけるようになります。

 私たちは、子どもたちが何かをもらったり、お願いする時には、「ありがとう」とか「どうぞ(お願いします)」と言うようにさせますね。こうしたことは、言われなくてもできるようになってほしいものです。

 他人に対して、心から自然に感謝を伝えられる親は、家庭においてもそうであることが知られています。そのような家庭の子どもたちなら、自然に感謝のことばを言えることでしょう。

 私たちの四歳になる孫は、そんな子どもです。食事中でも、食事のあとでも、「おいしい食事をありがとう、お母さん(またはおばあちゃん)」と自然に口にします。

 そのようなことばは、みんなの心を温かくします。彼はこのような態度をどこで身につけたのでしょう。私にはそれがわかる気がします。彼の両親が、お互いに対して、また他人に対して、すぐに感謝の気持ちを伝える人だからです。

 皆さんは感謝の教育をなされているでしょうか。また、すなおにあやまる謙虚さを教えておられるでしょうか。どちらも、親の生活態度の中で学んでいく大切な訓練です。私たちがしないことには家族は学べません。こころをその人に置く訓練を主にあってなしていきましょう。

「あなたの家族の一人ひとりを思い起こしてください。その中で、孤独を感じている人、さみしく感じている人はいないでしょうか。いるとすれば、その人と共にいてあげてください。それが、あなたの福音宣教です。」とはマザー・テレサのことばです。

前にもお話ししましたが、JOY(真の喜び)はJ(イエスが最初、次にあなたの隣人、そしてあなた自身という順序で生きていくとき、内側から湧き上がってくるのです。

あなたの祝福は与えることから始まります。やさしことばをかける。感謝のことばを言う。あなたから、そのように神の願うことを、主を愛するゆえになそうとするとき、主ご自身があなたを祝福されることを体験なさるでしょう。お祈りしましょう。