祝福に与る4つの秘訣 聖書箇所:第2歴代誌7章14〜15節

[新改訳]  歴代誌第二               
7:14 わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
7:15 今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。

神様は雨男のわたしをいつも恵んでくださり、今日も雨を降らせてくださいました。昨日、ゆきこKane姉の記念のために植えた球根が、しっかり水を含み、来年の春りっぱな花を咲かせてくれるものと思います。

今日もサラリーマン川柳をいくつか紹介します。
 

社員数 昔は自慢 今(いま)負担
     景気のいいときは、社員を増やして誇っていた企業も、今はリストラいっぺんやり。人件費が一番かさむのですよね。残業ただ働きも当然のようなご時世。しかし、通用するのは日本だけ。人材は人財だというのに。
 久しぶり 握手するのに 名が出ない
 久しぶりにお会いして挨拶するのだけれど、だれだっけ。物忘れがひどくなる今日この頃。皆さん一緒ですね。
       
 体重計 置き場所変えて もう一度              
 体重が気になる、娘と私、体重計にのっては、あれおかしいな。「太りすぎですよ」とは私のこと。運動しなきゃ、車椅子もそう遠くない。              
 長電話 かんじんな事 言い忘れ               
 電話ではなしているうちに肝心な用事を言い忘れ、何で電話したかも忘れてしまう始末。始末に負えない。              
 ストレスも 出せたらいいな ゴミの日に               
 日本では今は、ごみは分けで出す。テネシーでは何でも一緒に捨てられたが、ここではやはり分けで出す。それが本当なのだけど。ストレスも良いストレスと、悪いストレスを分けて出せたらいいのに・・・・ほんと。
 紅白で 知ってる歌は 二曲だけ
               
 アメリカ生活も長くなると、知っている曲もみんな懐メロ。それでも、最近また、こころに癒しを語る歌が流行ってきている。多くの人が本当に癒しを求めています。

というわけで、今日のタイトル「祝福に与る4つの秘訣」について、みことばに耳を傾けていきましょう。先ほど読んでいただいたみことばを見てください。14節です。これから神様が私たちに求めておられる願いを学んでいきます。

 まず第1に必要なことは「へりくだり」です。
 私たちはなかなか「自分の本当の姿」を認めようとはしません。人に対しては色々と思ったり言ったりします。でもどうでしょう。自分自身の間違いについては軽く見積もってしまう傾向がないでしょうか。そのことが分っていても、それを真剣に「悔い改めよう」とはしない傾向にないでしょうか。 私たちは自分がしていること、考えていること、感じていること1つ1つを見て「自分はどのような者なのか」を考えると、「私には自己愛以外に本当に愛がない」と思いませんか。

 神様が私たちに命じている標準的な生き方は「互いに愛しあう」ことです。愛し合えないのは神の前にずれているのです。私たちの生涯は神の栄光のために生きることと書かれていますが、そのよう生き方をされているでしょうか。相変わらず自己中心に自分の為に生きていることがはるかに多いのではないでしょうか。そのことに、気づいた時に、いつも悔い改めているでしょうか。私たちは時間をとって、主の前に「主よ。私はあなたの前に罪の告白をすることはないでしょうか」と祈っていくべきです。あなたが知らずに犯している罪も沢山あります。その為にも、主は十字架で苦しみを受けてくださったのです。もし皆さんの中に喜びや元気や感謝がなくなってきたら「主よ。何が原因ですか?」と主の前にへりくだることが必要です。これがないために私たちは神の祝福を取り去られてしまい、恵みを注ぐことができないのです。
 喜び“JOY”はJesus(イエス)を始めに、他の人々(あなたの隣人)を次に、そしてYou(あなた)を最後にするとき、本当の喜びが湧き上がってくるのです。人の喜びを喜びと出来る人生はなんと幸いなことでしょう。
 

「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」(イザヤ書30章18節)
 神様は私たちに恵みを与えようとして待っておられます。しかし、私たちがへりくだらないために恵みを注ぐ事ができなくなっているのです。このことを決して忘れないようにしましょう。神様はいつもへりくだる人の傍らにおられるお方なのです。

 第2に「祈りをささげ」です。
 皆さんの神様と交わるための祈りの祭壇を築いておられますか。わたし達に来る 神様の祝福は祈りを通してやってくるのです。それなのに、あなたの祈りの祭壇がほこりでいっぱいになっていないでしょうか。何日のあるいは何週間もあなたはそこに出て行って交わっておられないのではありまえんか。 

 ルターは「この書物(聖書)はあなたを罪から遠ざけ、しかし罪はあなたをこの書物(聖書)から遠ざけます。」と言いました。私たちは、祈りとみことばにより神様との親しい関係を日ごとに持つことが以上に大切なことは他にありません。わたし達の霊的いのちはこのことなしに生きていくことは出来ないのです。このことなしに神の恵みをいただくことは難しいことです。神の恵みの御座は、あなたの前にいつでも開かれているのです。問題は私たちが主の前に静まり、主の声を聞く準備が出来ているかどうかです。あなたは、自分の言いたいことだけを話し、神様が答えようとするとする前に、その場から立ち去っていませんか。一方的に自分のことばかり、神様に押し付けて、神の声に耳をふさいでいませんか。形だけの祈りだけではなく、本当に神様と交わる時間が大切なのです。

 第3に「あなたの顔を慕い求め」ることとあります。私たちは祈りの中で沢山のことをお祈りすると思います。そしてその結果を期待するかもしれませんが、「主ご自身を求めること」があまりにも少なくはないでしょうか。神様に結果を求めはしても神様ご自身を求めはしていないのではないでしょうか。それは、ちょうど子供がおばあちゃんやあじいちゃんに何でもねだって買わせ、祖父母自体を求めていないのといっしょです。それを、愛するゆえに、かわいいゆえに与えてくださる祖父母を、自分の欲求のために利用するようなものです。用事のあるときは、おばあちゃん、おじいちゃんといっても用事のない時には近づくこともしない子供たちのようです。悲しいことだと思いませんか。
 預言者ホセアは主の民に語っています。
 「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6章3節)
 神様ご自身を求めるていこうではありません。神様があなたを潤され、祝福されるお方なのです。

第4に「その悪い道から立ち返るなら」とあります。 私たちは分かっていても「仕方がない。皆もやっている」と言い訳をして罪から立ち返ってこようとしません。これが問題なのです。そこには「立ち返ったってどうせ赦してはくれない」とか「変らない」と思ってしまうのです。しかし、聖書の神は、悔い改めて立ち返るなら、罪を赦し、癒されるお方であるのです。

旧約聖書の歴代誌にマナセ王という人物が出てきます。マナセ王は歴代の王の中でも特別に悪い王で、悪に染まった半生を生きた王でした。彼は、あらゆる神様に忌み嫌われる罪を犯し続けました。マナセはヒゼキヤというユダを代表する善王が晩年、奇跡的な神様の癒しを体験したことによって、与えられた子です。列王記下20章によると、重い病気にかかったヒゼキヤが神様に涙の祈りをするとき、癒され、寿命が15年加えられます。それゆえに与えられた子がマナセでした。彼は紀元前696年、12歳で王となります。彼は第2歴代誌33章2〜10節を見ると分かりますように、悪の限りを尽くします。父ヒゼキヤが取り壊した聖なる高台を再建し、異教の神バアルの祭壇を築き、アシュラ像を造ります。そして、天の万象の前にひれ伏し仕えます。更には、主の神殿の中に異教の祭壇、神殿の庭には、天の万象のための祭壇を築きます。「マナセ王は、それでも飽き足らず、また、彼はベン・ヒノムの谷で、自分の子どもたちに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、呪術を行ない、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。」(第2歴代誌33章6節)それでもマナセは悔い改めず、7節「さらに、彼は自分が造った偶像の彫像を神の宮に安置した。」(同7節)のです。

ここまで、霊的に最悪の状態になるなら、間違いなく道徳的な退廃が起こってきます。どの国家も、真の神から離れ、偶像を拝み続けるなら、道徳的に大きな破滅が訪れます。それは、この国アメリカでも日本でも同じです。 当然のこととして、マナセが行った霊的な数々の罪は、民を道徳的にも大いに堕落させました。「マナセはユダとエルサレムの住民を迷わせて、主がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行なわせた。」(9節) 神の民イスラエルが、ここまで堕落するとは、神様の痛みは、どれほどだったでしょうか。私たちも、愛するわが子が親に反逆の限りをつくすようなことがあれば、その痛みはどれほど大きなものであるのか理解出来ると思います。愛すれば愛するほど、痛みも大きいのです。

10節によると神様はマナセと民が悔い改めるようにと語られました。人間の度重なる反逆にも関わらず、神様は、怒ることに遅く、憐れみ豊かな方です。そして、どんな罪の中にある者にも、悔い改めて神様に立ち返り生きることを願っています。しかし、「彼らはそれに耳を貸さなかった。」のです。神様の語りかけに最後まで耳を貸さないということは、最大の悲劇です。最も恐ろしい選択です。列王記では、彼の罪がユダヤ人のバビロン捕囚の直接的原因になったと語っています。

このようなマナセ王に回復の可能性があるのかと思わされます。こんなひどい罪を犯し続ける心、神様の忠告も無視する傲慢で頑なな心、そこに神様が働く余地があるのでしょうか。悔い改めは可能なのでしょうか。人間的な思いでは、とても難しいように思われます。でも、神様には可能なのです。人には出来なくても神には出来るのです。神様は、ここまで堕落したマナセ王であっても、悔い改めて生きることを願っていたのです。また、マナセ王の中に、消えようとしている良心の小さな残り火を見ていました。ここでも、私たちの思いや考えを超えたところに神様の高い御思いがあることを知らされます。神様は最後まで、一つの貴い魂が悔い改めて救われることを願っていらっしゃいます。そして今日、十字架によって、いかなる罪を犯した者であっても、回復の道が示されているのです。十字架の犠牲は、私たちのいかなる罪をもすべて赦し清める力です。罪を認めて遜る魂に、どんなときでも神様は近いのです。

 神様は、マナセ王を悔い改めに向かせるために、苦難の炉を用いました。そして、マナセはへりくだって悔い改め、神様を主とするようになります。11〜13節を見てください。「そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」

マナセは再び王としてユダを治めることになります。

本当に驚きです。神様は何と寛大なお方なのでしょうか。それだけではなく、神様は私たちを、祝福しようと待っておられるお方なのです。どんなに神様から離れていても、私たちが立ち返っていくならば、その私たちを祝福して下さるのです。主をほめたたえ、感謝する以外にことばがありません。

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(詩篇32章1〜2節)
 私たちの心の傷がいやされるために必要なのは、自分が「ゆるされる」ことであり、同時に、私たち自身も自分を「ゆるす」ことが必要です。人はゆるされてこそ初めて、正しい生き方ができるようになります。しかし、赦し赦されることほど、人間にとって難しいことはありません。ところが、そのような私たち人間を、神様は赦そう、癒そうと言われるのです。

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに・・・私たちの神に帰れ、豊かに赦してて下さるから。」(イザヤ書55章6〜7節)
 聖書の神は、恵みと憐れみに富み、真実赦して下さる神様です。弱さをもったまま、がんばれないまま、罪をもったまま、神の前に「こんな私を赦して下さい」と祈る時、神様はありのままの私たちを受入れ、そのすべての罪を赦して下さるのです。それは、イエス・キリストが私たちの身代わりとなって、本来私たちが受けるべき刑罰を十字架上で受けて下さったからなのです。「神があなたを赦す道を備えられたのだから、あなたはただそれを受け取ればよいのです。もう自分を責めてはいけません」と主は優しい眼差しで、語りかけておられるのです。

ロシアのベラルーシには有名なチェルノブイリという放射能に汚染された地域があります。この地域はあの原子力発電所の事故以来、今後200年間は作物が採れないと言われた地域です。その地の1人のクリスチャンが「この地も神様あなたの物です。どうかこの地を癒して下さい。この地を回復させて下さい。」と真剣に祈り始めたそうです。今ではガイヤカウンター(放射能濃度を計る機械)で放射能を計測しても何の反応も出ず、その地の放射能は本当に消えているのだそうです。そこには昆虫や動物がどんどんと戻ってきているのです。ある方がその地で取れた蜂蜜をもらいました。しかし心配になり政府機関に持ちこみ調べると、その蜂蜜から放射能は全く検出されず、さらに最高級の蜂蜜であるとお墨付きをもらったそうです。神様の御業は驚くべき力を持っていますし、いつの時代でも「もし私たちがその気になりさえすれば」神様は驚くべきことを成されるお方です。このことに心に留めたいと思います。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(第2歴代誌16章9節)
 神様は私たち1人1人にも「その心がご自分と全く一つになっている」ならそこに御力を現わして下さるのです。私たちもそういう者にならせていただきたいものです。もし私たちが悔い改めこの4つのことをしていくならば、主はあなたを癒され、大いに祝福されるのです。

旧約聖書のハガイ書をお開けください。1章6〜10節をお読みいたします。
「あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。万軍の主のはこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。あなたがたは多くを期待したが、見よ。わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。――万軍の主の御告げ。――それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。」(ハガイ書1章6〜10節)

 私たちの生活がこのようになっていないでしょうか。「一生懸命にやっているのに少しも実が実らない」のは私たちが主の前に大切な土台をいい加減にしているからなのです。

 続けて2章18〜19節をお開きください。
「さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。すなわち、第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。」(ハガイ書2章18〜19節)

 彼らがひでりで乾ききり、どんなに惨めな状態であったとしても、「神殿の土台」いうならば「悔い改めの土台」に立ったその日から彼らを祝福しようと神様はおっしゃっているのです。私たちもこの恵みにあずかっていきたいものです。そうして私たちも神の祝福を他の人が認めざるをえない、そのような生き方に変えられたいのです。それは特別な人だけではありません。全ての人に与えられているのです。誰でも主の前に静まる者はそうなっていくのです。この祝福にもっともっと与っていく者とされていきたいと思います。お祈りいたします。