癒し主なるキリスト(副題:心の癒しの福音) 
聖書箇所:ルカによる福音書22章54〜62節、ヨハネによる福音書21章1〜17節

[新改訳]  ルカの福音書             
22:54 彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
22:55 彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
22:56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
22:57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。
22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。
22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。
22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

[新改訳]  ヨハネの福音書           
21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

先日、朝日新聞の文化芸能欄に、「小澤征爾さん、国立歌劇場に小中学生7000人招待」という記事がありました。

長い間ボストン交響楽団の音楽監督だった小澤征爾さんが、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任し、先月28日、オーストリアの小中学生7000人を招待して、子供向けにアレンジしたモーツァルトのオペラ「魔笛」を上演し、大喝采(かっさい)を受けたというものです。今回の上演は、音楽を通じた若い世代との交流を大切にしてきた小澤さんが毎夏、長野県松本市でのサイトウ・キネン・フェスティバルの際に続けてきた「子どものための音楽会」がモデルとなっています。小澤さんと歌劇場のホーレンダー総監督が、歌手とウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に呼びかけて実現したそうで、歌劇場の本舞台が子供向けに開放されたのは異例のことです。上演後招待された子供の一人アンジェリカさん(14)は「小澤さんの表情とジェスチャーはとても明るく愉快で、大好きになりました」と言っていました。また、セヤド君(13)は「こんなに楽しいオペラをただで見られて感激」と興奮さめやらぬ様子でした。サインを求める子供たちに囲まれた小澤さんは「子供の気持ちをつかむのは大変だけど、やってよかった」と満足した表情を見せていたそうです。 私も大のクラシックファンですが、「魔笛」がどのようにアレンジされて上演されたのか興味深いです。

ところで、このことは私たちクリスチャンが主から委ねられた、福音宣教の働きにおいて、大切なことを示唆しています。パウロは「ギリシャ人にはギリシャ人のようにと」と言いました。それは、ウイクリフのような聖書翻訳の働きにも大切な要素として用いられています。特にイエス様がたとえで多くのことを語らえたことは、それを聞くものが聞いて悟るためでした。日常生活の習慣やことば使い、言い伝えになどにたとえることを通して真理を理解するためでした。小澤征爾さんが「魔笛」を子供向けにアレンジして、オペラの楽しさを子供たちに知ってもらおうと工夫をこらしてアレンジして上演しました。同じように、私たちは聖書のみことばを、私たちが理解できるたとえを用いてその真理を伝えることはとても大切なことです。ある人にとっては文語訳の聖書のことばがなじみやすいのですが、新しい世代にとってそれは理解しにくいものです。同じ国民が、世代によってもこれほどの違いがあるのですから、原語や文化的背景が違えばなお更です。

今日は先にお読みいただいた聖書のみことばから、癒し主であるイエス様がペテロの心の癒しをなさる愛の恵みの業を見ていきながら、私たちの心の問題を主に取り扱っていただこうと思います。

いま大流行の「癒し=ヒーリング」という言葉があります。もともとキリスト教用語として普及していったものです。わたしも、CDコレクションの中にクラシックとゴスペルや他のジャンルでも癒し系の音楽も持っています。その中の1枚を皆さんに先日紹介し、神とのデボーションで用いていただいているわけです。

少し前までは,「いやし」という言葉はクリスチャンの間でしか聞きませんでした。ましてや,英語の「ヒーリング」なんていう言葉は,わずかな人しか知らなかったと思います。ところが,「いやしをもたらす商品」という意味で「ヒーリング・グッズ」という言葉も耳にするようになりました。音楽によるいやし,香りによるいやし,絵によるいやし,そして,日本では温泉によるいやしも流行っています。

 先月、中島みゆきさんの「地上の星」が、発売4年でオリコン首位になったと報じられていました。この曲は、NHKテレビ「プロジェクトX」のテーマ曲です。中島さんは昨年末のNHK紅白歌合戦に初出場し。富山県の黒四ダムの直下のトンネルでこの歌を歌いました。
 2000年春から続く「プロジェクトX」は、戦後日本を支えた無名・有名の人たちを感動とともに描く番組です。経済評論家の佐高信さんは「サラリーマンが“すがる対象”として聴くからだろう。リストラに熱心な経営者が良しとされる社会は、いわば“闇”の世界。そこに毅然(きぜん)と立ち向かうのではなく、ただ天上の“星”を仰ぎ見ている。サラリーマンのある種の悲鳴であり、軍歌のようなものだと思う」と話していました。

朝日新聞の最近の調査で、過労社会 増える「心の病」 企業の6割にという記事が目に留まりました。職場のストレスが増大する中、主な企業100社のメンタルヘルス(心の健康)対策を朝日新聞社がアンケートしたところ、回答企業の6割弱でうつ病など「心の病」を抱える社員が増えていることがわかったそうです。

  大人たちだけでなく若者たちの声も、東洋大学が募集する毎年恒例の「現代学生百人一首」の入選作の中に読まれています。いくつか紹介しましょう。

「告白も別れの時も親指で今の時代はせつないものだ」  高3・石原達也。

こんなこともあります。

「友達がイジメられてた知ったとき僕の口から言葉が消えた」  高2・相澤幸輝。

家族を詠んでいるものでは。

「嫌いだった習わせられたこのピアノ鍵盤叩く母亡き今も」  高2・小林萌子。

「この部屋をあんたにあげると言う祖母の言葉の意味を解りたくない」  高2・吉倉朋子。

世間の冷たい風も忍び寄ってきます。

「絶対にアルバイト私休めない父のリストラ十七の秋」  高2・女子。

様々な境遇がある現実。

「大学に行きたい気持ち口にせず倉庫の奥でひたすら働く」  高3・佐久間慎太郎。

今、心の癒しを求める人たちが、癒し系の音楽やグッズを求めてあふれています。このようなもので表面的には疲れがとれ、リラックスできるのかも知れません。しかし、人間の心というのは,そんなに浅いものではありません。もっともっと深い部分があるのです。ちょうど氷山が,海から出ている部分が小さくて、海の下に隠れている部分がものすごく大きいのと同じように、私たちが普段意識している部分はわずかであっても、潜在意識の中に隠れている部分というのはとても深いと思います。そして、その部分が私たちの生き方にとても大きな影響を与えているのです。

現代人はみな社会の中で傷ついています。大人も子供も傷ついています。傷は受けても多くの人たちは癒される場所を知りません。そんな中で日本では年間3万人を越える人たちが自殺しています。先日もまた、若者がネットの自殺志願の呼びかけに応じ、互いに初めて会った者同士が車の中で一酸化炭素中毒を故意に起こして自殺しました。3人ともまだ20代の若き男女でした。

マザー・テレサはこう言いました。

「私にはある老人ホームを訪問した時のことが今も忘れられません。多くの老人たちが息子や娘たちから忘れられて生活していました。環境や設備は悪くありません。でもだれもが寂しそうにドアの方を向いているのです、しかも顔には笑みがありません。シスターに聞きました、なぜですか?シスターはこう答えました。「いつもこうなんです。子どもが訪ねて来るんじゃないかって」

ここで知ることができることは、決して居場所といっても物理的なものばかりではないということです。まず心の居場所、さらにもっと深いレベルの、そうです、霊的な居場所が人には必要なのです。

皆さんは、「どうして私はこのように考え,このように話し、このように行動してしまうのだろうか。」と自分が嫌になることはないでしょうか。分はこのような者でありたいと思っているのに、それとは逆の自分になってしまっている時、聖書はそれを「捕らわれている状態」と呼びます。すなわち、自由ではない状態です。そして、今朝の週報の今週の聖句の言葉によると、イエス様は「捕らわれている人に解放を告げるために」(ルカ4章18節)来られたと言うのです。イエス様は私たちを天国に連れて行ってくれるためだけに来られたのではありません。「死んだら天国に行けるんだから、この世では捕らわれている状態でも我慢しなさい」とは言われなかったのです。もしそうなら、福音(踊りあって喜ぶほど嬉しい知らせ)と呼ばれるに値しません。

ナザレの会堂でイザヤ書61章を朗読した後に、イエス様は「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」(ルカ4章21節)と言われました。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブル13章8節)。ですから今日も、この聖書の言葉を耳にしている私たちに,解放の働きを行って下さるのです。このイザヤ書を新改訳聖書で読むと,「心の傷ついた者をいやすために、私を遣わされた」(イザヤ61章1節)と書いてあります。イエス様のこの世に来られた目的は、私たちを天国に導くことだけではなく、私たちの心の傷をいやすためでもあったのです。

私たち人間の心は非常に深いものです。そこには様々な記憶が詰まっています。楽しい記憶ばかりではなく、不愉快な記憶,二度と思い出したくない記憶も詰まっています。その記憶は、母の体の中で受精した時までさかのぼるとさえ言われています。ですから、その記憶の中に私たちは当然様々な傷を持っています。
 失恋したこと、受験に失敗したこと、友達にいじめられたこと、最も辛いのは、自分を守ってくれるはずの親から拒絶されたという傷ではないでしょうか。人から受けた傷だけではなく、自分でも許し難いような罪を犯した時にも、私たちの記憶に大きな傷が残ります。直視できる傷はいいです。傷跡は残っているけど,もう痛みのない傷もいいです。「この傷跡は、隣の家の柿を盗んでこっぴどく叱られたときのものなんだ」と言えるものはいいです。
 二度と見たくなくて、何の処置もしないまま、包帯にくるんでおくだけのことしかしなかった傷にはうみがたまっています。普段は忘れていても、何かがあった時にひどく痛むのです。見たくない傷を見ないようにするということはエネルギーの要ることです。それはあたかも、風船を水の中に押し込めておくようなものです。ずっと風船を押さえ込んでおくために、私たちは捕らわれた状態になってしまいます。束縛された状態です。そんな私たちを解放し自由にするために、「私は来た」とイエス様ははっきり主張されました。今日の聖書箇所ヨハネ21章では、イエス様はペテロを心の傷から解放するために姿を現わしてくださったのです。ちょうど、ペテロが弟子として主が召された同じ場面がよみがえってきます。「人間を獲る漁師にしてあげよう」と言われたイエス様に従って何もかも捨てて主について行った時のことです。 

ペテロの心にはとても大きな傷が残っていました。あんなに大好きだったイエス様を裏切ってしまったからです。この方と一緒なら死んでもいいとさえ思っていました。そして、そう公言もしました。しかし、土壇場になった時、自分は弱かったのです。情けないほど弱かったのです。女中の言葉におののいて、「私はあの人を知らない」と思わず言ってしまいました。しかし、まだやり直すチャンスはあったのです。少したってからもう一人の人に聞かれた時、「実は,私はイエス様の弟子です」と言えば良かったのです。しかし、またしても否定してしまった。次は1時間後です。二回の罪を悔い改めるには十分な時間でした。しかし、最後に与えられたチャンスさえも彼は拒否してしまいました。それものろいの言葉をもって・・・。

この出来事はペテロの心、つまり記憶の中に、どうすることもできないほど大きな傷となって残ってしまいました。自分で自分を赦すことができなかったのです。ペテロはその傷を二度と見たくありませんでした。ただ包帯にくるんで見えないようにしておきました。そして、もう一度イエス様に召される前の仕事,漁師の仕事に戻ったのです。

イエス様が彼の前に現れたのはそんな時でした。何のために現れたのでしょうか。叱るためでしょうか。裁くためでしょうか。そうではなく、ペトロの心の傷をいやすため、そして捕らわれた状態から解放するためだったのです。「自分はもうイエス様を愛し、仕えることなんてできない」という考えから自由にするためでした。そのためにイエス様がどうしてもしなければならなかったこと、それは、まずペテロの包帯を取ることでした。つまり,見たくない過去の傷を直視させると言うことでした。そのためにイエス様は炭火を用意していました。それを見た時にペテロは、はっとしたことと思います。あの日炭火に当たりながら、三回イエス様のことを知らないと言った場面が目の前にはっきりとよみがえってきたからです。

私たちの過去の傷がいやされるためにどうしてもしなければならないこと、それは記憶の中でその時に戻ることです。あなたが傷つけられたその場面に戻ることです。あなたが二度と思い出したくない罪を犯したその場面に戻ることです。そして、次にするべきことは、そこに立いらっしゃるイエス様を認めるということです。「そんなひどい場面にイエス様がいらっしゃるはずがない」と言いますか。イエス様は,「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ28章20節)とおっしゃったではありませんか。「いいえ、あれは私がクリスチャンになる前のことですから、イエス様は一緒におられたはずがありません」と言いますか。イエス様は、あなたがクリスチャンになる前どころか、あなたが母の胎の中にいる時から、あなたと一緒におられたのです。

詩篇139篇16節に「胎児であった私をあなたの目は見ておられた」と書いてあります。「じゃあ、イエス様が本当にあの場にいらっしゃったのなら、何のためにおられたのですか」と問われますか。あなたを助けるためです。あなたの傷を包み込むため、そして、傷ついたあなた抱きかかえるためでした。心の傷のいやしのためにあなたの側でしなければならないことはただ、イエス様がいないと思っていたその場面に、あなた自身の選択と決断をもって、イエス様がおられたことを認めることです。そして,そこにおられるイエス様に抱きしめていただくことなのです。

「いや、あの時は私が罪を犯していた時です。イエス様がおられたとしても、私を裁きの目で見ていたに違いありません」とおっしゃいますか。ペテロがあの罪を犯していた時にも、イエス様はそこにいらっしゃいました。そして、「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22章61節)と書かれています。ペテロはその時のイエス様の目をどのような目と捉えたのでしょうか。「とんでもないやつだ」という裁きの目、「お前はその程度の男だったのか」という軽蔑の目、「もうお前が私のために働くことなどありえない」という失望の目と捉えたのではないでしょうか。しかし、実際はそうではありませんでした。その時のイエス様の目は、憐れみの目、赦しの目、そして、ペテロの将来に対する期待の目だったのです。「そんなことがどうして分かりますか」とおっしゃいますか。ルカ22章31〜32節のイエス様の言葉で分かります。「シモン、シモン、サタンはあなたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられました。しかし、私はあなたのために、信仰がなくならないように祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様はペテロが立ち直ることを前提にこうおっしゃっているのです。ですからあの時の目は、立ち直ることを知っていた、ペテロの将来に対する期待の目だったのです。

イエス様は今ヨハネ21章で、あの時以来、初めてペテロと個人的に話をされます。その時の最初の言葉は「あなたはわたしを愛していますか」という期待の言葉でした。

心の傷のいやしとは、言葉を替えて言うなら,「関係の回復」です。「あんな人のことは知らない」と言って、三回に渡ってご自分との関係を断ち切ったペテロに、イエス様は、「私はあなたを愛しています」と三回告白させることによって関係を回復されたのです。そして、ペテロが「私はあなたを愛しています」と一回言うたびごとに、「私の小羊を飼いなさい」「私の羊の世話をしなさい」「私の羊を飼いなさい」とおっしゃいました。そうして、「自分は、もうイエス様のために働くなんてことはできない」という考えに縛られていたペテロを自由にされたのです。

ペテロにイエス様が伝えようとされたこと、それは、「ペテロが罪を犯していたまさにその場所にイエス様はおられて、彼が立ち直ることを信じて見つめていた」ということでした。そして、ご自分の胸にもう一度飛び込んでくるようにペトロをお招きになったのです。その招きに応えた時、ペテロの傷はうみがきれいに出されて消毒されました。傷跡は残りましたが、もう化膿するということはありませんでした。そして、その傷跡を持ちながらもペテロはもう一度やり直すことができたのです。このことを自らの身をもって経験したペトロだったからこそ、その後、「あなたももう一度やり直すことができます」と、やり直しの福音を力強く語ることができたのです。

記憶の傷がいやされるために、包帯を取ってその場面に戻り、そこに立っていらっしゃるイエス様を認めて下さい。イエス様はあなたを抱きかかえて下さいます。

 今も多くの人々に愛されている『あしあと』という詩があります。こんな詩です。

「あしあと」 マーガレット・F・パワーズ

ある時、私は思いの中で自分の人生の歩みを振り返りました。

それは、砂浜の上に残っている足跡のような情景でした。

二人分の足跡がずっと続いていました。私は嬉しくなりました。

なぜならそれは、自分の足跡とイエス様の足跡であることを知っていたからです。

ところが、あるところには一人分の足跡しかないことに気がつきました。

よく考えてみると、それは自分の人生の中で最も苦しい時でした。

私はイエス様に文句を言いたくなりました。

「イエス様,あなたはいつも私と一緒にいると約束されたではありませんか。

あの時は私が最も辛い時だったのに、どうしてあなたはわたしを一人にしたのですか。」

イエス様の答えが聞こえました。

「あの時、私はお前を一人にしたのではないのだよ。あの一人分の足跡は実は私の足跡なのだ。

お前が最も苦しかった時、私はお前を抱きかかえて歩いていたのだよ。」

「最も苦しかった時」とはあなたにとっていつでしょうか。そこは、イエス様がいらっしゃるということを最も認めることの難しい場面ではないでしょうか。しかし、イエス様は主張します。「私はその時、あなたを抱きかかえていたのだよ」と。問題はあなたがこの言葉を受け入れるかどうかです。それはあなたの選択と決断にかかっています。

「イエス様、足跡が一人分しか見えないあの時、あなたは私を抱きかかえていて下さったんですね」と認める時、あなたのうみのたまった傷にイエス様によって正しい手当がなされます。そして、たとえ傷跡が残ったとしても、あなたはもう一度やり直すことができるのです。イエス様はその福音をあなたにもたらすために来て下さったのです。

イエス様はあなたを招いておられます。ありのままでいいのです。主の招きに応じましょう。お祈りいたします。