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「愛する」ことと「無関心である」こと
私たちは、ふとした瞬間に他人に対する無関心さが顔をのぞかせます。自分は人に関心を持ってもらいたがっているのにです。ここに自己中心という罪の性質を見ます。それでは家庭という枠の中でそのことを見てみましょう。 今は少子化の時代で、子どもが親の愛情や関心を求めなくても過剰な愛情をそそいでしまい、過保護が健全な人格形成を阻害してしまうことも多いのですが、逆に親の無関心の為に心が荒れ果てている子どももよく見かけます。 当然のことながら、子どもは誰でも「親から注目されたい、誉めてもらいたい」「自分は役立つ者だと認めてもらいたい」という欲求をもっています。兄弟が多ければ、ますます親の感心や愛情を得ようと、その欲求は強いように思います。もちろん子どもに限らず大人でも同じことが言えると思います。一昔前、「亭主元気で留守がいい。」というコマーシャルが流行りましたが、今は、不況の中で、家に自分の居場所が無いために、リストラされたり、左遷されたりしていても、そのことが妻に言えず、何も変わっていないように家を出て出勤し、公園や図書館などで時間を過ごして帰るご主人の姿を、ある番組で放送したいたことが印象に残りました。ご主人の場合は、今まで妻に家庭を任せ切りで、妻の信号に気づかず、子育てに対しても無関心だったことも原因にあるのですが、子供の場合は当然親や社会の無関心が大きな影響を与えています。
これらの無関心は子どもにとっては、もし「うちの親は自分のことなんかどうでもいいと思っている」「私なんかいてもいなくても同じ」と感じたときは、欲求の強さに比例するかのように、憎悪の気持ちを抱くようになってきます。日ごろから、子どもに関心をもっていること、機をとらえたほんのちょっとした言葉をかけることは、乾いた地を潤す恵みの雨のように、子どものこころを豊かに耕していきます。子どもに無関心であったり、子どもからのサインやメッセージを受け取らないで気づかずにいることが続くと、大人に対する子どもの不満は積もっていきます。 子どもが何も言わないから、黙っているから、その子どもはそれでいいと思っているとは限りません。子どもが黙っているから、自分で言わないから、何もしなかった、気づかなかったというのは親の無関心によるものでしょう。黙っているからこそ、いや、黙っているときこそ、私たちはそこに「こころを使う」べきです。こころを使うことこそ、聖書がいう「愛」なのです。 以前、家庭集会でハワイ在住の巡回伝道者である中野雄一郎先生が来てくださったとき、「愛とは過去を赦し、現在を誉め、未来を励ますことだ。」とおっしゃられたことばが印象に残っています。聖書に愛の章といわれる手紙があります。そこには、このように書かれています。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。 愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、 人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 愛は決して絶えることがありません。 (コリント人への手紙第一13章4〜8節)[新改訳聖書]
この愛の箇所に、「愛」という言葉の代わりにあなたの名前を入れて見てください。私たちはいかに無関心で愛のないものであるかが判るでしょう。
いかがですか。あなたは「赦す愛、誉める愛、励ます愛」を持っておられるでしょうか。「あなたは自慢せず、人のした悪を思わない」でしょうか。
私はそうではありません。素直に自分にそのような愛のないことを認めます。 しかし、この愛を生きられた方がおられます。イエス・キリストです。彼は、いつも人々に関心を持ち、人々の必要を満たして生きられました。そして、罪人の隣人となられました。それだけでなく、もっとも必要な罪からの開放をご自身の十字架によって実現してくださったのです。神が愛なのです。この愛なるお方があなたに住まわれるとき、このお方の愛があなたを通して現されるようになるのです。あなたは、キリストに委ねるだけで良いのです。あなたが、身近な家族や人々に関心を示し、愛を実践しようとする時、神が伴ってくださいます。
「主よ、愛のないわたしに愛を下さい。」と祈って見て下さい。祝福をお祈りします。
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