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「キリストにあって歩みなさい」 聖書箇所:コロサイ人への手紙2章6,7節
[口語訳] コロサイ人への手紙
2:6 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。
2:7 また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。
[新改訳] コロサイ人への手紙
2:6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。
2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
[新共同訳] コロサイの信徒への手紙
2:6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
2:7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
皆さんは、すでにイエス・キリストを救い主、人生の師として迎え入れた方々です。「あなたが主であり、わたしはあなたの僕です」と告白された方々であると信じます。そのような皆さんに対して、今日のみことばが語られています。「あふれるばかりの感謝」とはどのような感謝でしょうか。
あるおばあさんが痴呆症になり言葉もだんだん忘れていったそうです。そして最後に残ったのは三つの言葉だけでした。その内の1つが「ありがとう」でした。
多くの方々の最後を看取ってきた医師が、次のように語っておられます。
「私達の人生の終わりの時は、私達がどのように歩んで来たかにかかっている。普段から感謝の心で歩んでいる人は、最後の時になっても感謝の心がでてくる。しかし、いつも恨み・つらみを持っているなら、終わりもそのようになっていく。」
普段の心も持ちようが、どのように死を迎えるかにを決めるのですね。
昔、備前の富岡村に『ありがた与一兵衛』という人がいたそうです。朝起きると「おはよう」のかわりに、「ありがたい、ありがたい」。何がそんなにありがたいのかというと、「朝起きて、家族の顔を見られてありがたい」。小雨が降りだし急いで帰ろうと滑って転び、そこでもまた「ありがたい」。転んで擦りむいて一体何がありがたいのかというと、「自分の落ち度で骨折してもよさそうなところを、ただの擦り傷ですんでありがたい」と。
もの事をどのように取るかは大切です。いつでも、すべての事に感謝することは、私たちにもできるのです。
アメリカに星野富広さんと同じように、事故で首から下が不随になって、口に筆を加えて絵を書かれるクリスチャンの女性がおられます。ジョニー・タダさんといって、ご主人が日系人の白人の女性です。
2000年に彼女は始めて日本を訪れました。そのときの講演でこのように言っておられました。
「新しいことに気が付いてほしい。『弱い人』が、家庭や教会に必要だということを・・・。神様は自分自身に頼る人ではなく、自分の弱さを認め、神様に頼る人に力を与えて下さるからです。だからこそ私たちは弱さの中に誇りをもつことができるのです。神様を感じることもなく毎日を忙しく過ごしている人が、一番重度の障害をもっているのかもしれません」。目に見える障害だけが問題なのではない。神様を必要だと感じない方が問題なのだと語っておられました。さらに、「困難にぶつかったときにすぐにその意味を知りたい、答えをほしい、と思うのが人間。でも神様はすぐには答えを下さりません」。ジョニーさん自身は、自分の身に起こった出来事に、「神様、なぜですか?」という問いを繰り返していたと言います。「神様は答えではなく、ご自身を与えて下さいました。このお方がすべての答えなのです」。簡単に問題を解決したいと思う人間、簡単に答えを与えようとするこの世の宗教ではないでしょうか。しかし、「十字架上で極限の苦しみと痛みを担って、人間へ火のような愛を下さった方がいる」と、どんな問題にも光を注ぐキリストの愛を語っておられました。
ジョニーさんは毎朝、神様に感謝する心を与えてください。ほほえみを与えてくださいと主にお願いし一日を始められるそうです。人の世話にならずには、自分で自分の体を自由に動かすことが出来ません。でも、感謝のことばや、ほほえみは与えることができますね。
「朝起きたとき、ああ今日も起きることが出来て感謝だなあと心から思えるんです。」と。星野さん同様、こんな大きなハンディを背負っておられるのに感謝だなんて、とは思いませんか。でも、今生かされていることを感謝だと思える、毎朝心からの感謝をもって一日を始められるとしたら、それは何と豊かな人生でしょうか。しかし反対に、もし私たちの心が開かれていなければ、そこにどんな素晴らしいものがあったとしても気付きません。私たちが様々な出来事に出会う時、そこに良いものを見いだし、感謝の心をもつことが出来るなら本当に幸いです。でも、どうしたらそんな気持ちになれるのでしょうか。
私たちは普段自分で生きていると考えています。でも、本当にそうでしょうか。私たちは毎日どれくらい息を吸っているか考えて見たことがあるでしょうか。自分に必要な酸素を自分で生み出しているという人はいるでしょうか。水はどうでしょう。・・・私達が生きるために必要なものは、あえて言うなら、何一つ自分で作ることが出来ないとさえ言えるのではないでしょうか。
「私は生きている」と威張ったように言いますが、実はそうではありません。生かされているのです。回りにいる多くの人たち、あの人に、この人に、そして何よりこの天地を造られた神様によって、私たちは生かされているのです。この事がわかる時、私たちの生き方は変わってきます。自分が生かされているということを本当に知る時、「ああ、ありがたい」「感謝だなあ」という思いが自然に出てくるのではないでしょうか。
また、私たちはついつい嫌なところばかりに目を奪われてしまいがちです。家族の中で難しい関係がある時、たとえ相手を褒めることが大事ですよといわれたとしても、「褒めようにも、良いところなど一つもない。」と思ってしまうのです。でも、この事においても、私たちは主から訓練を受けて行くことが必要です。あなたの心が感謝で溢れているか、それとも不平不満で溢れているか、それはあなたの生活の豊かさの違いを生み出します。だからこそ、神様は『感謝の心を持つ人になりなさい。』と聖書を通して語っておられるのです。
神様が私たちに命じられることに関しては、神様に求めて行うのだ”ということを、ぜひ知って頂きたいのです。「私は0点、あなたは100点」自分でやろうとしたらいつか疲れはてます。やがて「出来ない」「嫌だ」という気持ちが出て来るに違いありません。でもそれを、「神様、させて下さい」「私も良いことに目を止めさせて下さい」「感謝の心を持つ者にして下さい」と祈り始めるなら、初めは一つ、次に二つと、皆さんの中にも感謝の思いが少しずつ増えていくことでしょう。そのようにして一日の初めに5コ、あるいは10コと感謝を見つけて一日を始めるならば、きっとその日の生活がいよいよ豊かなものへと変わっていくはずです。
私たちの感謝の根拠は、どこにあるのでしょうか?
それは第一に、「すでにキリストが私たちのために死なれ、復活し、いのちを提供してくださっている」ということです。 現在の私たちの状態によらないのです。
それは第二に、「経験から感謝」ではなく、「感謝から経験」があるということです。経験で判断してはならないのです。
新約聖書の中にある感謝のみことばをいくつか紹介しましょう。
「日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。」(ローマ14章6節)
「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(第一コリント15章57節)
「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」(第二コリント2章14節)
「あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。」(第二コリント9章11、12節)
「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」(第二コリント9章15節)
「また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」(エペソ5章4節)
「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ5章20節)
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4章6節)
「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」(コロサイ1章12節)
「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」(コロサイ2章7節)
「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3章15-17節)
「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」(コロサイ4章2節)
「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(第一テサロニケ5章18節)
まだまだ沢山ありますが、感謝することは神のみこころだということがわかります。
先週、私たちは「恐れるな、喜べ、もっと喜べ、最高に喜べ、イエスの名によって」と宣言しました。神は私たちがいつも喜べるように、喜ぶことを招いておられます。そして、 喜びへの招きに祈りと感謝が続きます。
ハイデルベルク信仰問答は祈りと感謝を結びつけています。信仰問答は「なぜキリスト者には祈りが必要なのですか」と問います。答えは次のように始まります。「なぜなら、祈りは、神がわたしたちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです」。祈ることが感謝することだと言われます。そして信仰問答の先を読むと感謝としての祈りには、神に乞い願うことも含まれています。このような祈りも感謝です。ただ、やはり感謝するというのは一義的には「神様、ありがとうございます」と言えるでしょう。しかし、これが難しいのです。先に、喜びなさいという勧めの前提にキリストの喜び、神の喜びがあると聞きました。そうであるならここでも先ずキリストと父なる神が感謝とどのように関わっておられるかを知りたいと思います。
主イエスの五千人の給食の場面を思い出します。大人の男の人だけでおよそ5千人の人が集まっていまし。その時、イエス様から彼らに食べ物を与えるようにと言われて、弟子たちは大勢の人々の食事のことで心配しました。ところが、一人の少年が大麦のパン五つと魚二匹を差し出します。弟子たちは、せっかく持っているものを差し出した少年を前にして主にこう言います。「こんなに大勢の人では、こんなものは何の役にも立たないでしょう」。弟子たちは不満でした。感謝などできません。しかし主イエス様だけはこの時、少年に向かって「ありがとう」という思いを表されたように思います。「君はよく差し出してくれたね。これで十分だよ」と感謝を伝えられたのではないでしょうか。それからイエス様は父なる神への感謝の祈りへと向かわれました。その食物を祝福されて、神に感謝なさいました。そして、イエス様は人々に食物を分け与えられました。人々は食べて満ち足りました。すべては感謝すべきことだったのです。
「主は陶器師、われは土くれ・・・・・」と歌われる賛美があります。
「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。それから、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。・・主の御告げ。・・見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」(エレミヤ18:4−6)
私たちの信仰の歩みにおいても砕かれるという経験をするものですが、砕かれるのですからそれは痛みを伴う場合が殆どです。しかし、このことは神様の手の中にあって製作中である事に感謝したいと思うのです。私たちは神様の願う最高の作品になるよう砕かれるという経験をします。しかも、地上の陶器の失敗作のように、割られてすぐに捨てられるような事はなく、神様の全能の御手の中にあって取り扱われるのです。
「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」
ですから、信仰は、初めにキリストの中に根ざします。言い換えれば、自分が教えられたところのキリストの中にとどまるということです。そして、その土台から建てられます。まず根をはって、その根から成長していかなければいけません。そして、教えられたとおりに信仰を堅くしていきます。すると、自分が信じたとおりのものが、見えるかたちで、自分にもまた他人にも明らかになります。その結果、「あふれるばかりに感謝しなさい」と言われるような、感謝できることがあなたに起こり始めるのです。あふれるばかりの感謝の生活が、このプロセスを通ることによって結ばれる実です。御霊の実です。
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(コリント第二4章7節)
そう、私たちから出たものではないのです。
今試練や困難の中にある方は陶器師なる主の御手の中にあることを是非覚えて下さい。たとえ私たちが失敗するような事があったとしても、神様が失敗したのではありません。勿論捨てられておしまいなどど言うことは絶対にありません。主の御手の中で製作中であることに心を留めて行きたいと思うのです。たとえその時は理解できなくとも、後になって必ずこのためだったのかと分かる時がやってきます。
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12章11節)
確かに平安な義の実を結ばせてくださいます。
最後になりますが、キリストにあって歩みなさいと今日のみことばは勧めています。
パウロがここで言っているのは、「主イエス・キリストに聞いて、その信じたとおりに歩みなさい。」ということです。信じてから、また別の新しい歩みがあるのではなく、「信じているその信仰をさらに深めなさい」ということです。私たちはクリスチャンになって、「私は信じてから何をすればよいのでしょうか。」と牧師や教会の兄姉に聞くことがあると思います。そのときに、「礼拝を守り、伝道を行ない、奉仕をして、弟子訓練を受けてください。」などの、何らかの活動をすすめるわけです。しかし、初めてイエス・キリストを信じた、その信仰の中からさまよい出て行ってしまい、行ないによって完成させようとするのです。ですから、八方塞になってしまいます。これは、あたかも、新婚夫婦がすぐに別居して、それぞれ任された仕事をするようなものです。教会やその他の奉仕や活動をしているのですが、イエス・キリストご自身を見失っている、ということがしばしば起こっています。パウロは、このことについて戒めています。「あなたがたは、主イエス・キリストを受け入れたように、彼にあって歩みなさい」と言っています。
私たちは、キリストと結ばれていなければ何も出来ないのです。御霊がこのことを明らかにしてくださいますように。お祈りしましょう。
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