戸の外に立ってたたかれる主  中心聖句:ヨハネの黙示録3章20節

[新改訳]  ヨハネの黙示録 3章20節
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 家に親しい人を招いて食事をするのは楽しいものです。我が家も、ここ3週間、日本から親しい友や主にある家族が滞在し、共に感謝な交わりを持つことができました。ここでは、「王の王、主の主」であるイエス様が呼びかけておられる場面です。

 「近いが、しかし遠い」という言葉で現代を言い表した人がいます。科学の発達によって地上の物理的距離が驚くほど縮まっているのに反比例して、人と人との距離は遠く離れていっています。
 人間の愛はどこまで冷え、人間の疎外感がどこまで広がっていくのでしょうか。アガペー(神の愛)という一方的に与え最善を期待し、待つことの出来る愛は神しか持っていません。「神の愛」以外に、人と人との距離を埋める道はありません。今日は、この「神の愛」にフォーカスをあててしばらく礼拝の中でみことばから学んでいきたいと思います。

先週に引き続き、もう少し内容を補う為に、黙示録の3章20節からお話しいたします。この箇所は黙示録の中で7つの教会へのメッセージで主イエス・キリストが語られた最後の教会に宛てられたものです。ラオデキアは7番目の教会として出てきますが、その前には、私が願って祈っているところの、ラーレーの日本語教会がめざしたい教会の姿が語られています。フィラデルフィアの教会です。フィラデルフィアということばの持つ意味は兄弟愛です。この教会は堅い信仰に立ち、すべてのことにおいて主を喜ばせようとしている教会です。彼らは教えに対して真剣であり、真のクリスチャンと言えます。彼らはキリストの再臨を待ち望み、その時の備えをしています。キリストがこの教会について語られた中で、特にすばらしいと思えるのは、

「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」(ヨハネの黙示録3章8節)

ということばです。主は教会のために、ドアを開けておいてくださり、だれにもそれを閉じることはできないのです。

 神の国を求め、魂を救おうとし、主に仕える機会を求め続けるかぎり、私たちはその道を見出します。私たちは自分の弱さにもかかわらず、それを見つけるでしょう。黙示録3章10節でキリストはこう約束されています。

 「 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」。

これ以上、明確な約束はありません。現実にこの地球全体に、試練の時がきます。もう、すでにそのことが始まっているように思えるような今日この頃です。しかし、神に信頼して忠実に歩み続けている者を、主は守られると約束しておられます。

 キリストを信じる信仰は、愛のために自己犠牲を伴うものです。そして、この愛は「内住のキリスト」によって初めて世に明らかになります。何故なら、神が愛だからです。しかしここで、自分が信じていることで傷みを受けたり、迫害を受けることと、大患難時代を通り抜けることとは異なります。また、神から離れた世界に生きた苦しみとも異なります。このことは、また別の機会に、詳しくお話ししたいと思います。

人類の歴史(Histry=His+ Story)において、大患難時代は、まだ始まっていません。しかし、神の怒りがこの地上に注がれる時は迫っています。もし、あなたがクリスチャンで、主に仕えよう(主に仕えることと、人に仕えることとは、コインの裏表のような関係です。どちらも結果的には主に仕えることを意味しています。)と全力を尽くしているのなら、この地上でそれを見ることはないでしょう。何故なら、主が守られると約束されているからです。(聖書を研究する大多数の聖書学者は、このことで意見が一致しています。)

 先週も申しましたが、最後に挙げられているラオデキアの教会は、うぬぼれと自身に満ちた傲慢な教会です。主に仕えていると言いながら、本当は自分自身に仕えているのです。この教会はこの世に深く根を張り、肥え太っています。また、永遠への視野を失い、なまぬるく、無関心になっています。初め、この教会は主の祝福を受けていましたが、しばらく経つと神から目を離し、祝福のみを求め始めました。そして、ついには、その初めの祝福が神から来たということさえ忘れてしまい、自分たちの勤勉さによって得たものだと信じるようになりました。この教会は、立派な会堂を建てて、建物は絢爛豪華であるかも知れません。また、テレビ放送や出版物などの面で成功し、よく知られている教会かもしれません。しかし、この教会は信仰の面ではなまぬるいのです。キリストは言います。
「このように、あなたがたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」(黙示録3章17節)

 あなたは、このようなラオデキアの教会の一員ですか?神への情熱を失っていませんか?信じていても以前のようにではなくなってしまったという人はいませんか?

たとえそうであっても、その状況を変える方法があります。

こんな話があります。

昔、アフリカ奥地の小さな国を、あるイギリス人夫妻が訪れました。小さな国の王様は彼らをもてなし、ためらいながら、「実は、イギリスの女王様から大きなプレゼントが届いたのですが、何だか分からないので、倉庫に入れたままにしているのです。ちょっと見てくれませんか?」と尋ねました。倉庫に入ってみると、何と立派なグランドピアノではありませんか。しかもひっくり返って置かれているのです。イギリス人夫妻はそのピアノを正しく置き直し、ピアノの前に座り、すばらしい音楽を奏でました。王様をはじめ、みんなはびっくりしたということです。

神様はすばらしい贈り物を人間にくださっています。人間はだれもが、偉大な人生を生きるように、喜びに満ちた幸せな人生を送るように、責任と持ち物を与えられているのです。ただ、多くの人はそれをひっくり返したまま、倉庫の中に、虚しく放り込んでいるのです。

確かにある面、人間は罪深い、弱い、どうにもならない代物です。最近の血なまぐさい事件の連続。小学生、中学生による殺人事件、高校生の暴走族、通り魔殺人、主婦のアルコール中毒の増加、年々上昇しつづける離婚率、幼児虐待、家庭内暴力の増加、数えればきりがありません。大人の世界にも、子どもの世界にも、ドロドロしたものがいっぱいです。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず……(ローマ人への手紙3章23節)

人の心は何より陰険で、それは直らない。 (エレミヤ書17章9節)

 聖書にはこのように書かれていますが、まさにそのとおりです。

 しかし神はこのどうしようもない人間を愛してくださっています。イエス・キリストは、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」(マタイ16章26節)と教えられました。いいえ、教えただけではなく、ご自身のいのちを犠牲にして、私たちのために、死んでくださったのです。

 あなたは、今の現実がどうであれ、神のかたちに似せて造られた尊い存在なのです(聖書がそう言っています)。神の愛が限りなく、あなたの上に注がれているのです。たとえ無学であっても、人に嫌われ、「あんたなんか、いないほうがいい」と言われていたとしてもです。

 イエス・キリストは、「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない」(ヨハネ6章37節、口語訳)と言われ、ご自分のところに来た者のすべての汚れや罪の重荷を、ご自分で引き受けて、十字架上に死んでくださいました。

 第一ペテロの手紙には、
「キリスト様は、自分の体に私たちの罪を負い、十字架上で死んでくださいました。そのおかげで、私たちは、罪ときっぱり手を切り、正しい生活を始めることができたのです。キリスト様が傷つくことによって、私たちの傷が治ったのです。」(Iペテロ2:24、リビングバイブル)とあります。

 だから、あなたの罪や汚れ、呪いや病気、責められる心や不安、恐れ、重荷や苦しみのすべてが、十字架上で葬られたことを信じるなら、救われます。自由となり、解放が与えられるのです。

 イエス・キリストは十字架の上に死んでくださいました。そして三日目に復活し、今も生きておられる神様です。あなたの、まことの救い主(メサイア)なのです。

 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)

 イエス様の福音宣教の初めに、バプテスマのヨハネが登場します。神から遣わされたバプテスマのヨハネは、イエス様より6ケ月前に誕生しました。ヨハネは荒野で生活し、皇帝テベリオの時代の15年(おそらく紀元26〜27年)に、預言者としてヨルダン川のほとりで、「罪が赦される、悔い改めのバプテスマ」の説教を始めました。このヨハネの指摘した「悔い改め」とは、過去の罪の生活を、「悔いて、改め」ることでした。それは決して「単にお詫びをする」ことではありません。また「後悔する」こととも違います。それは、外側の形式的な悔い改めではなく、心からの真実な、神への方向転換を含んだ「悔い改め」を意味しました。そこで、ヨハネの荒野での声を聞いたユダヤ人の人たちは、ヨハネの叫びに答えてヨルダン川に降りてきました。そのヨハネに救い主を指摘された人々は、なおも盛んに回心して、その後に現れた救い主であるイエス様に付き従う人たちとなりました。

 しかし、ユダヤ人の指導者たちは、ヨハネに従って悔い改めようとはしませんでした。ここでイエス様は、当時の指導者たちのかたくなな心を、指摘されました。イエスは彼らに言われました。

「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(マタイの福音書21章31,32節)

彼らに必要なのは、救い主イエス・キリストを信じて受け入れることでした。それは今日の教会でも同じことです。私たちも、主の招きに答え、悔い改めて主に従って行きましょう。

いつでも、もし、あなたがドアを開けるなら、キリストは中に入って親しく交わると言っておられます。キリストをあなたの人生の中に再び招き入れてください。情熱を呼び戻してくれるようキリストに求めてください。キリストはあなたの求めに答えてくださいます。そうすることによって、あなたは大患難時代にこの地上にいなくて住むのです。マタイの福音書24章にあるように、エリヤと同じように、神があなたを取り上げられる日が来るのです。イエス・キリストを、あなたの尊い心の中にお迎えください。復活のキリストが、あなたの心のピアノの前に座ってくださいます。その時、神と調和し、自分と調和し、人と調和する、すばらしいメロディーとハーモニーが、あなたの内からわきあふれ、流れ出るようになります。

そして、あなたが主によって主のみこころを歩み始めるとき、あなたは与える人へと変えられていきます。努力するのではなく、神の助けによって、主がおっしゃられるならと一歩踏み出すのです。そこから祝福が始まるのです。

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカの福音書6章38節)

 ずいぶん昔のことですが、インドに、用水路を作るのが大変上手なお百姓さんがいました。初めの年、彼が引いてきた用水は、隣の田んぼにもあふれ出ていきました。おかげで、隣の田んぼにもよい米ができ、豊作でした。そこで彼は、次の年には、用水があふれ出ないように、自分の田んぼの周りに堤防を造りました。その結果、水はせき止められましたが、彼の田んぼの水は腐ってしまい、田んぼは沼地となってしまいました。

恵みはせき止めると、腐ってしまいます。
 イエス・キリストが活躍されたパレスチナには、ガリラヤ湖と死海という二つの湖があります。
 ガリラヤ湖にはたくさんの魚が住んでいます。ガリラヤ湖はいつも上流から水が流れ込み、下流へと流れ出していくので、魚が生きるのにふさわしい湖なのです。ところが、下流にある死海(「塩の海」ともいいます)には、一匹の魚も住んではいません。塩分ばかりがたまって、魚や植物は生き延びることができないのです。ユタ州にあるソルトレイクのようです。

 人の人生が、もし受けることだけが、成功や幸福への近道だと考えていたら、それは大きな間違いです。イエス・キリストは「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20章35節)と言われました。いや、そればかりではなく、それ以上に与えることを勧め、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタイ7章12節)と、人生を積極的に生きる道を示してくださいました。

 私たちは、利己主義を克服することによって、成功への正しい道を歩むことができます。

他の人を助ける時、あなたは幸せな人生を生きることができるのです。

富を分けてあげる時、自分が話すよりも多く聞いてあげる時、あなたは成功への道をより速く進んでいるということができるのです。

 与えることは、あなたの人生を、偉大にする秘訣です。「私」ではなく、いつも「あなた」について考えてみませんか?「得る」ことだけを考えるのではなく、「与える」ことを考えてみましょう。

それでは、何を与えることができるのでしょうか?

 まず、微笑みを、笑顔を与えることができます。明るい声で、あいさつすることができます。

 以前、「ほほえみ」という渡辺和子さんが「愛する人へ」というエッセイ集の中で紹介しておられる詩を、皆さんに紹介したことがありますが、覚えておられますか。

 こんな、話があります。

 ある交差点で、信号が青に変わりました。一人の免許取り立ての婦人の車のエンジンが、なかなかかかりません。たちまち、車の流れがストップしてしまいました。後の車は次々警笛を鳴らします。彼女は車を降りて、後の運転手に言いました。「私の車を動かしてくださいな。代わりに私が警笛を鳴らしますから」。

 このように、私たちの周りには、警笛を鳴らす人は沢山います。不平や不満、怒りや憎しみをぶちまける人はいっぱいいます。警笛を鳴らすことは簡単なことです。しかし、それで何かが解決したでしょうか? 問題はますます大きくなるだけです。

与える心、理解を与えてみませんか。あなたの周りにいる人の本当の気持ちを分かってあげる努力をしてみましょう。

 また、だれかが困っていたら、喜んで手伝いましょう。聖書に
「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」(第一ヨハネ3章18節)
とあるとおりです。

 イエス・キリストは、あなたや私のために、ご自身のいのちを与えるほどに愛してくださいました。

 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」 (ヨハネの福音書15章13節)

 イエス・キリストはすべてを与えてくださったのです。
 あなたも与える幸いを、ぜひ経験なさってください。あなたの言葉、思いやり、理解、赦し、あいさつ、小さなプレゼント、心を与え続けてください。
 あなたは与えるものをたくさんもっています。そしてそれは、決して減っていくことのない豊かな資源なのです。

イエス様は戸の外に立って、わたしたちに心の戸を開いてくださるよう、たたき続けておられます。その戸にはとっては内側しかないのです。あなたが開かないかぎり主は入ってくることができないのです。さあ心の戸を大きく開いて主をあなたの中に招き入れましょう。もし、主を心の片隅に追いやっておられた方々がおられるなら、あなたの心の中心にもう一度お迎えしましょう。必ずあなたは、神様との豊かな関係を回復し、満たされた人生へと導かれることでしょう。お祈りいたします。