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愛するゆえに ◆今日の聖書箇所:ヨハネの黙示録 3章14〜22節
8/8/2004

[新改訳] ヨハネの黙示録
3:14
また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
3:15
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
3:17
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
3:19
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
先週は多くの祝福のうちに、それぞれの地で「Duo Takase」の高瀬真理、瑞恵夫妻によるすばらしいコンサートと集会が持たれたことを感謝いたします。今回、スケジュールがハードでしたので、Raleighを発たれる日が、飛行機のキャンセルによって1日伸びたことも感謝でした。今日ハワイでのご奉仕を終えて、明日大阪に戻られる予定です。教会員の方々で出席できなかった兄姉は是非ビデオでご覧ください。二人の信仰のお証しは、大変心を打ちました。主は生きておられます。このお二人がこれから益々、主に用いていただけるようお祈りしましょう。
また、Goti家も無事に日本に着かれたようです。今回は、駐在されていた家族の愛犬を日本に連れ戻られましたので、Raleighで犬を飛行機に乗せることが出来ず、沢山の方々の協力によって、愛犬が持ち主の手に届けられようになって「ほっと」しておられることでしょう。多くの兄姉が人の為に仕えておられることを感謝いたします。
さて、今日テキストとして取り上げました黙示録の1章19節に
「そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。」(黙示録1章19節)
とあります。先月から、終わりの時代に生きる私たちの信仰生活に的を絞りながら、第2ペテロの手紙からメッセージをお伝えしています。そこで、関連の深い、黙示録とダニエル書など預言書も交えながら、今のときのキリスト者の生き方について主の御心に耳を傾けたいと思います。
この黙示録は先の19節のことばから、次の三つに分類することができます。
第一に見たこと。 イエス・キリストの栄光(ヨハネの黙示録1章)
第二に今あること。7つの教会について (ヨハネの黙示録1章〜5章)
最後にこの後に起きること。(ヨハネの黙示録4章〜22章) です。
この黙示録には預言書として、古い要素と新しい要素があります。この書の目的は、新たな情報を付け加えることではありません。黙示録には、旧約聖書からの情報が、約550ヶ所(75%)も言及されています。そして、旧約聖書の預言は、メシヤ的王国が、最高の預言でありましたが、新約聖書の預言は、新しい天と地が(黙示録21〜22章)が最高で、旧約聖書には与えられていなかった新しい情報が明らかになりました。
ヨハネの黙示録は、旧約聖書の預言を時間的に置換えてくれるものです。旧約時代の預言者ダニエルは、この預言は、御使いを通して啓示されたが、その当時は、理解することができなかったので封印されました。そして、時が至って、ヨハネの時代に明らかにされたのです。
ヨハネの黙示録では、さまざまなシンボル(象徴的)によって預言を表わしています。また、シンボルの描写において、理解できないことがありますが、良く考察するならば、一貫性があることと、旧約聖書の情報から、95%はそのシンボルが理解できます。残りの5%は1つ以上の意味を持っていて、必ず別の個所でそのことについて解説がなされています。
例えば、石、岩は、メシヤを象徴。 山は、王または王国とその権威を象徴。星は、御使いを象徴(サタンと言われるルシファーのように堕落した御使いを含みます)。そして、洪水、大川は、例外なく軍事的な侵略を象徴しています。
ヨハネの黙示録を理解することが、困難という理由は、旧約聖書を理解していないためであり、どうしても書かれた当時の聖書であった、旧約聖書を学びパノラマ的に神の計画(人類の歴史を支配するHis−Storyを学び知る必要があります。ヨハネの黙示録は、聖書の最後を飾る文書として、慰めに満ち、希望をいだかせる希望の書なのです。
それでは、教会はキリストの体、キリストの花嫁であることを覚えながら、今日のみことばに耳を傾けていきましょう。
黙示録の2、3章では小アジアにあった7つの教会に対する勧告が書かれています。しかし、7つの教会に対して共通語として「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」とあるので、7つの教会に語られたと共に諸教会、つまり教会全体に告げられたことばでもあり、教会に属する私たち全てに語っているのです。さて、諸教会というと、2つの説があります。一つは、いつの時代にもある7つのタイプの教会。そして、2つ目は時代の教会という意味です。ここでのポイントは主イエス・キリストの再臨です。エペソ、スミルナ、ペルガモの3つの教会は再臨に対する記述がないので、再臨の時には存在していません。そして、テアテラ、サルデス、フリラデルフィア、ラオデキアの教会は再臨の記述があるので、再臨の時存在する教会です。
ラオデキアという言葉には、「人々が支配する」という意味があります。後の説でいわれているように教会時代を時代配分すると、AD1900年〜現代までのことを指すと、ある聖書学者たちは言っています。確かに黙示録は預言書ですから、当時の教会について語りながら、未来のことも同時に語っています。私たちの周りを注意深く見渡してみると、現代の多くの教会は、これにあてはまるのではないでしょうか。
黙示録がヨハネによって記録された当時、ラオデキア(現エスキヒサース)は交通の要であり、毛織物の生産でたいへん繁栄していました。紀元60年頃に地震が起き、この町は崩壊しましたが、どこからの援助も受けずに、再建することができたほど経済的に豊かでした。しかし、経済的な豊かさは、彼らの霊的状態をなまぬるくする結果となったのです。彼らは神様に少しばかり関心がありましたが、いざとなると神様に信頼するより、経済に信頼したのです。手紙では豊かさのために信仰がなまぬるくなってしまったと非難されています。(黙示3章17節)不信仰な教会への手紙の中で「なまぬるいあなたを吐き出そう」(3章15、16節)と非難しています。彼らの神様の前における実際の姿は、みじめで、哀れで、貧しく盲目で、裸なのです(17節)。そのような、なまぬるいラオデキアの信徒たちにイエス様は、悔い改めを求めておられます。彼らとの深い交わりを求めておられます(20節)。
先にもふれたように、ラオデキヤの町は、銀行の中心地、毛織物の町、特に黒い羊の毛で織った布地として有名で、また弱視者のための目薬を輸出していたことで知られていた裕福な町でした。コロサイに最も近く(西に約20数qの地点)、パウロ自身によってではなく、彼の弟子エパフラスがコロサイ、ヒエラポリスと共にこの町の教会の基礎を築いたと考えられています(コロサイ4章12‐13節)。そのため、コロサイ書はラオデキヤでも読まれました(コロサイ4章16節)。アジアの7つの教会の中で一番厳しく衝撃的なメッセージを主が語られたのがラオデキアの教会でした。他の6つの教会もそれぞれ、非難されることもありましたが、それでも主は誉めておられます。ラオデキアの教会に対して主は何一つ誉める言葉は語らず、「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」と厳しく責めています。 どうして、誉められなかったのでしょうか。
それには、次の三つのことを指摘しています。と同時に、教会には主のいるべき場所がなかったことも20節のことばで伺えます。 ラオデキアの教会は第一になまぬるい教会でありました。
15節で、教会の行ないがなまぬるいと語っています。どんな行ないかも語っていないことから、なまぬるいという言葉は教会の状態そのものを示していると思われます。つまり、教会の生活は口や形では信徒であるかのように見られる程度でよいと思っていた人々の集いで、それで主は嘆き、叱っていたのです。
第二に、裕福な教会でありました。
自分は豊かになったという言葉で、自力で裕福な者になったと満足している姿を示しています。また乏しいものは何もないということで、更に自己満足の状態を表しています。霊的な豊かさをこの世の富で感じていたかもしれません。つまり、金持ちは祝福された証しだと錯覚している人のように。この世の裕福という子守唄で教会は眠っていたかもしれません。市場哲学という言葉がありますが、教会においてもこの世的な基準で判断し、信徒の数、予算、教会堂の大きさなどで教会を判断し、自慢し、それ以上何も必要なものがないと錯覚させる考えです。
第三に、自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の教会でありました。
なまぬるく、自称裕福だと思っているラオデキア教会は、惨め・貧しい・盲目・裸の教会だと言われます。盲目で裸の乞食であるということです。裸の王様という童話がありますが、この王のようにいつもきらびやかな最高の衣装を求めた王のように、自己満足や錯覚がもたらした状態であったということです。
主がラオデキアの教会にこんなに厳しく語ったのは、彼らを憎んでいるからではなく、彼らを愛しているから懲らしめておられうのです(19節)。ですから、この霊的乞食の状態から抜け出す為には、主が願われたことを行なう必要があります。主は、「火で精練された金をわたしから買いなさい。着る白い衣を買いなさい。目に塗る目薬を買いなさい。」と語り、ラオデキアの教会が「盲目で裸の乞食」の状態から立ち返るように教えています。
現在でも、金は銀行と係わりを持っています。銀行の貯金が多ければ裕福だと思っていた人々に、「火で精練された金」を持つべきだと教えます。第1ペテロ手紙1章7節では「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのである」と語っています。つまり、純粋な信仰、すべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置く信仰を持たなければならないといういことです。
毛織物の町の人々に着る白い衣を買いなさいと語ります。着る白い衣は、キリストを指す言葉として(ガラテヤ3章27節)、クリスチャンらしい生活(ヤコブ1章27節)を意味する言葉として理解できます。 人々に見せるための外見の生活からクリスチャンの心を持って生活するように教えています。
目に塗る目薬は、目薬を輸出していたラオデキアの教会には衝撃的な表現です。視力が落ちたのでそれに対する薬ではないからです。ラオデキアの教会の人々は何が見えなくなったことでしょうか。また何を見るべきでしょうか。ヨハネの福音書18章6節は、聖霊が「罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせる」ことを語っています。このことから罪、義、審判など聖霊によって見るべきことが見えないので、そのために目薬が必要であると教えます。
主イエス・キリストはこれらのものを「わたしから買いなさい」と語っています。つまり、問題の解決者が主ご自身であるということです。キリストのうちに真の富と栄光と誉れの源があることを彼らは知らなかったのです。それで、ラオデキアの教会に現れた主は「神に造られたものの根源である方」(14節)と語りました。
3章20節の言葉、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。・・・」はとても有名です。信仰を勧める時や伝道する時によく用いられています。 主は彼ら自身が気づいていない問題を直接語られ、必要な人のところに行き、ありのままで主を受け入れられるように招いておられます。ここに主の愛があります。愛する者を叱り、懲らしめるのは、問題を解決させるためであり、そのために主ご自身が扉の前にまで来て下さるのです。必要な者を買うために扉を開く者への祝福はすばらしいものです。「彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」ということです。主の晩餐への招待でもあります。喜びと希望と愛に満ちた交わりのある食事、そのような主との生活のことです。
19世紀の後半から20世紀の初めにかけて、親子二代にわたりドイツの教会に大きな影響を与えたブルムハルトという牧師がいました。 父ブルムハルトは教会の庭に、いつでも馬をつないだらすぐに旅立てる用意の整った馬車を置き、毎年の新年礼拝では、今年こそ主イエス・キリストが来たりたもうと説教したそうです。彼はまさに腰に帯をしめ、信仰のともし火をかかげて、キリストの来られるのを、今日か明日かと待ちながら生き抜いたのでした。
ブルムハルトと同時代にイギリスの画家ホルマン・ハントがいますが、茨の冠をかぶった主イエスがランプを手に一軒の家の戸口に立ち、ドアをノックしている絵「世界の光」を画いています(日本語部の礼拝堂のピアノの横にかけてある絵がこれです)。この絵のドアには取っ手がついていません。玄関の壁には茨が生えています。家の中からの応答を待ちながら、主イエスが大分長いこと立ち続けて居られるのでしょう。この食事は一日の一番大事な食事や宴会をさす言葉です。
「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」 主は、あなたと親しく交わり、楽しもうと呼びかけて居られるのです。勝利を得た者に与えられる座に招かれる祝福でもあります。でもこの祝福は、家の中にいる者が自分から求めて、内側からドアを開けてイエス・キリストを招き入れなければ頂けないのです。神さまはそれほどまでに私たちひとり一人の人格を尊重しておられるからです。
このハントの絵に触発されて、ウイリアム・ハウ(William W.How)が讃美歌を作りました。「O Jesus, Thou art
standing」
「閉ざせる門を 主はたたきて 応えいかにと ただずみたもう
ながくとのも(外部)に 立たせまつる 我ら御民の 心なさよ
み慈しみの 涙をもて 今なお止まず おとない(訪い)たもう
主イエスの愛の その広さよ 我らが罪の その深さよ
『汝れらがために 死にし我を などか拒む』と おおせ聞こゆ
今はいかでか ためらい居らん 主よ、戸を開く、入らせ給え」
最後にホセア書11章4節をお開きください。
[新改訳] ホセア書
11:4
わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。
[新共同訳] ホセア書
11:4
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。
口語訳では「わたしは彼らに対しては、あごから、くびきをはずす者のようになり、かがんで彼らに食物を与えた。」
これは共同訳で「身をかがめて」とあるように、神があなたの口元までかがみ、口を開いて食べさせてくれている様です。立ったままで子供に食べさせることはできません。私たちも小さな子供に食事を食べさせてあげるときには、身をかがめて食べさせます。子供を叱るときも私たちが身をかがめて相手と同じ視線の高さでものを言うことを心がけます。そばによりそう姿勢でです。「身をかがめる」それは主イエスが弟子たちの足をお洗いになったときの姿勢です。主イエスの姿にくっきりと示されている神の姿、それが私たちの信じる神のお姿です。この旧約聖書の小預言書とよばれる書物の一つであるホセア書は、罪深い人間を愛してやまない神様の愛を描いています。
ある人は、ホセア書は、「神様の人間に対する愛の、最高の表現である」と言いました。私もそうであると思っています。罪人を救い出そうとする神様の熱い思いがホセア書には深く表されているからです。そして、それは私たちの心の扉をノックし続けておられる主イエス・キリストの姿なのです。「神は愛なればなり」。そうあいするゆえに語られる神の愛の戒めのことば。わたしは、主の忍耐と寛容にこころから感謝いたします。
私たちの教会、集っている一人ひとりが、信仰の原点である主イエス・キリストに再び立ち返り、信仰の生きた熱い火を燃やす教会となることを祈っていきたいと思います。お祈りいたします。
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