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「明るみになること(新しく生まれなければ)」 ヨハネ福音書3章1〜21節
[新改訳] ヨハネの福音書
3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 3:19
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。 3:20
悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。 3:21
しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
昨日のインターネットの新聞に、とても心温まる記事が掲載されていました。
福井豪雨によって洪水の被害に見舞われた被災者に対して、福井県の西川一誠知事宛てに、宝くじの2億円当たり券1枚が23日午前、匿名で県庁に郵送されてきました。 この宝くじは、6月15日が抽選日のドリームジャンボの1等当たり券で、添えられた手書きの手紙には「新聞、ニュースで福井豪雨の被害を知った。不幸にも被害を受けられた方々に少しでも援助になれば幸い」と記してありました。この2億円の当選くじは、鑑定してもらった銀行で保管されています。寄付した人の意向を受け、消印の地域なども公表しないということです。 西川一誠知事は記者会見で「大変温かい志をいただいた。本来ならば直接お礼を言わなければならないが、本人が確認できないので公表することで感謝を示したい」と述べられました。また「元気づけられた。一生懸命頑張っていきたい」とした上、被災者への支援に充てる意向を示したようです。 福井県には23日までに、これとは別に計約5600万円の義援金が集まっています。
この記事は、全国紙の各誌ともこの心温まるニュースとして取り上げていました。多くの金銭にからんだ、おぞましいニュースが続く日本において、まだまだ日本も捨てたものではないと嬉しくなりました。
ご存知のように、今回の新潟に続く、県庁のある福井市外を直撃した福井豪雨では、日本の漆塗りや、和紙の地場産業に大きな被害をもたらしています。阪神大震災以降、多くのボランティア組織が地域に生まれ、今回も大きな救援活動をしています。地域産業や被害にあわれた方々の生活が一日も早く復興できるように願い祈りましょう。
それでは、今日の宣教の箇所から、聖書のメッセージに入りたいと思います。礼拝では1節から15節は良く知られた箇所ですので、読むことを省きましたが、今日の16節からは、この夜にイエス様を訪問した、ニコデモとイエス様との会話を受けてのものです。
このような話があります。
ある教会でのことです。その教会は、ラーレーのバプテスト教会のように、牧師を教会へ招く、会衆派の教会でした。新任の牧師が決まり、その就任説教があるというので、初めての礼拝は教会の座席がほぼ満席になりました。皆この新しい牧師が来たばかりで何を話すかと、耳をそばだてて聴きました。その説教は「新しく生まれなければ」という題でした。彼が話し始めたとき、聴衆の表情は堅く、説教の結果はあまり芳しくありませんでした。説教が終わった時、教会役員の一人が、「先生そのお話は何度も先任の牧師からもお聞きしたことがあります。」といいました。彼は新任の牧師がこの教会の様子を知らないから、この説教をしたのに違いないと思いました。次の週、新任牧師はその日の説教題を掲げました。それは「新しく生まれなければ」でした。やがて説教が終わると、ある会員がやってきて、「先週と同じお話でしたね。」といいました。第3回目の週になりました。皆は先生が今度は別な説教をされるだろうと思って教会に出かけました。3度目の説教も、全く同じ「新しく生まれなければ」でした。説教の最中に、人々は席を立ちはじめました。終わった時ほぼ半数ほどの人が残っていました。牧師が「皆さんの中に、新しく生まれたいと願っている方はいませんか?」と招きました。すると数名の手が挙げました。教会はその新しく生まれた会員をもとに、次第にキリストのいのちに溢れた教会へと脱皮して行きました。
先週、先々週と、ペテロ第二の手紙の1章からお話した中で、「主イエスを知る」ということをお話しました。
第一ヨハネの手紙4章2節には「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」とあるように、聖霊は新しく生まれたものの中に住まわれ、主キリストを神の子、救い主として告白します。ヘブル人の手紙2章1節には「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」(ヘブル2章1節)また、同じ12章2節には「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。
いつも私たちの贖いのしるしである十字架に立ち戻る必要があるのです。「わたしは道であり、真理であり、いのちです。」と宣言された神のひとり子は、十字架の死と復活によって、ご自身が約束のメシア(救い主)であることを証しされました。新しく生まれる為には、私たちが神の約束された御子キリストの福音を信仰によって告白するとき、神の確かな約束は成就するのです。ローマ人への手紙10章9,10節には「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあるとおりです。
ヨハネの福音書3章1節〜15節を見てみましょう。
3:1
さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。 3:2
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」 3:3
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 3:4
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」 3:5
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 3:6
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 3:7
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 3:8
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」 3:9
ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」 3:10
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。 3:11
まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。 3:12
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。 3:13
だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。 3:14
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。 3:15
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
ここにニコデモという人が登場します。ニコデモという名は「ニケ(勝利者)+デマス(民衆)」という意味を持っています。その名前のように、ニコデモはすでにユダヤでは有名な指導者の一人でした。(ヨハネ3章2節)。もう一人のキリストの隠れた弟子であったアリマタヤのヨセフとともにユダヤ教パリサイ派でユダヤ70人議会と呼ばれるサンヒドリン議会の議員でした。ヨハネ福音書では、ニコデモのことが、他に2箇所記されています。7章50-51節では、パリサイ派の人々の中にあってイエス様の味方をする意見を述べますが、かえって反発されて終わっています。もう1箇所は、イエスの埋葬の場面です。十字架の死からのよみがえり(復活)につながる大切な時、「前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。」(19章39節)とあります。三十キロの没薬とアロエは相当な量です。彼はイエス様の埋葬の為に必要な材料を大量に持ってやってきました。ニコデモがイエスの生前からの隠れた弟子のひとりであったことを明らかにする記事です。何故なら、備えの日にこのように死体に触れることは、穢れた者と立法でみなされ、大切な過ぎ越しの祭事に加われないからです。また、彼のこの世の立場にとっても大きな犠牲は覚悟してのことだったのです。直接、このことは聖書の記事には書かれていませんが、当時の状況から容易に推測できます。
3章にもどりますが、はじめからニコデモは他のユダヤ人の目を避けて行動したようです。イエスのもとに「夜」出かけてきました。一般的には昼間、堂々とイエス様を尋ねて来るのが普通です。夜になって出かけてきたということは、それなりの理由があったのです。ユダヤ人の指導者としての立場や、誇りがイエス様への求道の妨害になりました。それでも、ニコデモは神様への熱心があったようです。ニコデモはこのように質問しました。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません」(2節)。イエス様は偏り見ないお方でしたので、ニコデモの求めに対しても、決しておもねる様子も無く、かといって対抗するような偏狭さもなく、単純に神の国の入口を指し示されました。そして、ただ一言、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3節)と言われました。
ニコデモの宗教理解では、「新しく生まれる」ということは想像を絶する、理解を越えたことばであったことが、イエス様のお言葉に対する反応で示されています。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」(4節)。ニコデモは、人の心の問題を、身体の問題と勘違いをして答えています。それからさらに、ニコデモに言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」。この「まことに、まおこと」には原語では「アーメン、アーメン」ということばで、イエス様がこのように言われるときは、とても大切なことであることを意味しています。その後、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」と言われました。このことは、誰でもが理解できることではありません。霊によって生まれるのは、神のことばを受け入れて、それがいのちとして人の霊のなかに働き、生き続けるということです。
第一ペテロ1章23節に、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」とペテロが信仰の確認のことばとして、終末に備えるように語っているように、このことは、あくまでも霊の世界の出来事ですから、見えない世界を見る「信仰」の目が必要なのです。新しく生まれなければ、神の国を見ることも入ることも出来ないのです。ですから、どれだけ聖書を読んだか、どれだけ教会に出たか、どれだけ献金したか、それらはすべてクリスチャンとして重要なことですが、それよりも「新しく生まれる」ことは、根本的に必要不可欠なクリスチャンになる条件なのです。神学者が、クリスチャンであるとは限りません。どのように聖書の対する知識があっても、新しく生まれなければクリスチャンではないのです。
メソジスト教会の創設者ジョン・ウエスレーも素朴なモラビア派のキリスト者に触れて改心しました。
ジョンの回心は1年のアメリカ滞在から帰国後、1738年5月24日の夜、ロンドンのアルダスゲート通りの小さなモラヴィア兄弟団の集会で起こりました。弟のチャールズの回心はその3日前に起こっていました。この回心によって、ウエスレー兄弟は、今までのように神を懼れて、罪に苦しむことから解放され、神の愛を信じることが可能になり、歓喜に満たされ、ジョンの説教の言葉を引用すれば、「神を喜び、楽しむ」人間に変えられました。この二人の改心が教会のリバイバルへと発展していきました。このときの救いの喜びが、チャールズ・ウエスレーの讃美歌の原動力になり、回心直後から、彼の魂から歌が湧いてきました。集会の度ごとに、彼の作ったばかりの新しい歌が出席者一同によって歌われました。
もうひとつ、紹介したいお話があります。
ヨーロッパの神学校の校長を務める神学者がいました。ある時、アメリカの神学校が、彼に名誉学位を授与することとなり、彼は大西洋を越えてアメリカに渡りました。
飛行機を降り、バスで市街地に向かう途中、彼の肩を後ろからとんとんとたたく人がいました。振り返ると、黒人のおばさんがにこにこしながら話しかけてきました。「Are you born
again?」(あなたは生まれ変わっていますか?) 神学者である彼は、この問いが福音派のクリスチャンたちがよく使う言い回しであることを知っていました。そして、それがヨハネの福音書3章から取られた言葉であることも。
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。
(ヨハネ3章3節)
彼はおばさんに答えて言いました。「私はヨーロッパの神学校で校長をしています。アメリカの神学校で学位をいただきに来たのです」。
すると、おばさんは首を振りました。「いえいえ、私はあなたがどんなお仕事をしているか聞いたのでも、何をしにアメリカまでいらっしゃったのかを聞いたのでもありません。私があなたに聞きたいのは、あなたは新しく生まれていらっしゃるのかということです」。
その夜、ホテルの部屋で、彼はまんじりともしないで、あのおばさんの問いについて考えていました。自分は、新しく生まれるということの神学的な意味は知っているし、学生に教えもしてきた。しかし、この自分が新しく生まれているかどうかということについては、今まで考えもしなかった……。そして、彼はその夜生まれて初めてこう祈ったのです。「主イエスさま。私にも新しいいのちを下さい。私も新しく生まれたいのです」と。
今日お読みした16節以下はイエス様ご自身の言葉なのか,ヨハネ自身の言葉なのかわかりませんが、ここに福音の真理が凝縮されています。16節です。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(16節)
神の御子の世への派遣は神の愛の表れであり、世の救いのためでした。この世界は御子によって造られたのですが、御子を認めようとしなかった世界です。ヨハネ1章10節には、この世のために注がれる神の愛が説かれています。しかも、派遣されるのはひとり子(16)であると強調されています。
[新改訳] ヨハネの福音書
1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
[新改訳] ヨハネの手紙第一
4:9
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
ヨハネの福音書では、しばしば終末を現在化して語られていますが、ここでも派遣された御子を拒絶することがすでに現実のさばきとして語られます。終末の時を待つまでもなく、「人々は光よりもやみを愛した」(19)ということがすでにさばきなのです。現在の不信仰な態度が将来の罰を招くというさばきではなく,闇を選び取る生き方こそすでにさばきなのだと言っています。
罪は私たちを神から引き離します。しかし、神の愛の赦しは、罪から私たちを解放するのです。神の赦しを受け入れないことは、神から引き離され、罪に罪を重ねて、行き着く先は永遠の滅びです。
[口語訳] ローマ人への手紙
1:28
そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。
[新改訳] ローマ人への手紙
1:28
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
神の前では、すべてが明るみになります。困難や試練は、そのことを明らかにします。その時、神への絶対的な信仰(信頼)が私たちを守ることを知ります。アブラハムが信仰の父と呼ばれたのは、どのような状況にあっても神を信頼する信仰を失わなかったからです。ダビデ王も同じです。謙遜なへりくだった心は、どんな時でも神の臨在を経験できます。神がそのように約束しておられるからです。私たちも、へりくだって自分の信仰に、神の前に正直でありましょう。「信仰のない私をお赦しください。あなたの新しいいのちによって生まれ変わらせてください」と告白できるものでありたいです。
神はイエス・キリストを救い主として人の姿で地上に遣わされました。キリストはすべての人の罪の身代わりに十字架にかかって死なれました。そのキリストがこの世に来られたのは、私たちの罪のためでした。だれでも悔い改めて、イエス・キリストを信じ、受け入れるなら、即座に新しく生まれることが出来るのです。イエスを信じる人はどんな人でも、今、新しく生まれて、神の国に入ることが出来るのです。
あなたはいかがですか? あなたは新しく生まれていらっしゃいますか? 新しいキリストのいのちをいただいて生まれ変わりたいですか?お祈りしましょう。
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