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近づいている主イエスの来臨 ペテロ第二の手紙1章12−21節
[新改訳] ペテロの手紙第二
1:12
ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。
1:13
私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。
1:14
それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。
1:15
また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。
1:16
私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
1:17
キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
1:18 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。1:19
また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
1:20
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
1:21
なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
今から約2000年前、イエス・キリストは全世界の人々を救うため、神の御子であられるにも関わらずキリスト自らが十字架の上で人々の身代わりとしての死を遂げられました。金曜日に息を引き取られ、その3日後の日曜日の朝)イエス・キリストは復活されました。聖書には、イエスキリストを埋葬していた墓の中は空っぽだったと記されています。死んだ人が3日も経っていき返ると等という事は考えられない事ですが、神ご自身であられたイエス・キリストだけが神である事を証明するようにして、死から甦えられたのです。復活されたキリストとの出会いがあった使徒パウロは「キリストは事実眠っている者の初穂として甦られた」と証言しています。これが復活祭の起源ですが、歴史的には、西暦325年、ローマのグレゴリオ13世の時代にニカイヤ会議という宗教の代表者達の会議で毎年春分の日の後の最初の満月の後の日曜日、つまり3/22〜4/25の間に行われることに制定され、今日でも同じように祝われています。このニカイヤ会議において、制定された信条がニカイヤ信条といわれて、使途信条のもとになるものです。 今日でも、多くの日本の教会では「主の祈りと」と共に「使徒信条」を共に礼拝の中で一緒に唱和されています。このことを守っているのは、いつも私たちが何を信じているかを確認するものだからです。ニカイヤ信条を今日は現代訳で皆さんに紹介します。
ニカイヤ・コンスタンチノポリス信条
(現代訳)
わたしたちは、ただひとりの神、すべてを支配される父、
天と地と見えるものと見えないもののすべての造り主を信じます。
また、ただひとりの主イエス・キリストを信じます。
主は神の御子、御ひとり子であって、代々に先立って父から生まれ、
光からの光、まことの神からのまことの神、造られたものでなくて生まれ、
父と同質であって、すべてのものは主によって造られました。
主は人間であるわたしたちのため、わたしたちの救いのために、
天からくだり、聖霊によっておとめマリアによって受肉し、人となり、
私たちのためにポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、
葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天にのぼられました。
そして父の右に座しておられます。
また生きている者と死んだ者をさばくために、栄光のうちに再び来られます。
その御国は終わることがありません。
また聖霊を信じます。
聖霊は主、いのちの与え主であり、父と子から出て、
父と子と共に礼拝され、共に栄光を帰せられます。
そして預言者によって語られました。
私たちは、ひとつの聖なる公同の使徒的な教会を信じます。
罪のゆるしのための一つのバプテスマを認めます。
死者の復活と、来るべき世のいのちを待ち望みます。
アーメン。
キリスト者にとって、キリストの復活は「希望」そのものです。なぜなら、イエス・キリストが死から甦られたという事は、キリストを信じる者も、やがてキリストと共に甦(よみが)えり、永遠に生きるという約束があるからです。ここに、先に天に召された、愛する家族や親しい人達との再会の望みがあるのです。
復活は永遠に生きるという希望ですが、同時にそのことが、すべての人々、イエス・キリストを神の子、救い主と信じる人々(キリスト者)であっても信じない人々であっても、明らかになるとき、それはイエスの来臨の時です。聖書の最後の書物である新約聖書の預言の書「黙示録」の1章には、このように記されています。7、8節です。
「見よ、彼(キリスト)が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたし(キリスト・イエス)はアルファであり、オメガである。』」(ヨハネの黙示録1章7、8節)
私たちの教会の週報には「マラナタ」と書かれていますが、それは「主よ、来たりませ」という意味で、再臨の期待を希望に持った信仰のことばです。皆さんは、すでに備えが出来ていらっしゃるでしょうか?
それでは、今日の聖書箇所についてみていきましょう。
12〜15節までは地上の幕屋について語られています。
幕屋とは一体何のことでしょうか。幕屋の起源は、旧約聖書のモーセ5書にある出エジプト記でのシナイ山での神さまからモーセに語られた、イスラエルの民に対する神のことばにあります。聖書の中で、幕屋に関する章が50章(出エジプト記に15章、レビ記に18章、民数記に13章、申命記に2章、ヘブル書に2章)聖書は旧約929章、新約260章、合計1189章から成り立っています。)もさかれているので、大変重要なメッセージであることが分かります。幕屋は神が住まわれるところですから、ここではペテロ自身の肉体が神の幕屋であることから、地上の幕屋と言っています。幕屋は非常に大切な聖書の真理ですので、改めて幕屋については他の機会にお話することにいたします。
さて、ペテロは、12節から主を知る知識がゆるがない強固な土台によって確証されていることを語ります。その一つに、「キリストの力と来臨(再臨のこと)」は「わたしたちが、そのご威光の目撃者」(16節)であるという事実によって確証できると言うのです。ペテロはイエス様が変貌された時、「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」(マルコ9:9)と言われました。その言葉の通りに、キリストは死人の中からよみがえったのです。だから主の復活は、神の御力による「来臨」を約束するのです。神のことばは一字一句も地に落ちることはなく成就するのです。
12節で「ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。」といっているように、 ペテロは、この手紙を読むキリスト者たちに、すでに知っていることを思い起こさせようとして語っています。
では、何故、思い起こさせる必要があるのでしょうか。それは、私たちがいつも初めの愛に帰る必要があるからです。あなたは、神の恵みによって救われたのです。その時、どのようにして救われ、心が燃えたのか、いつも立ち戻る必要があるのです。しばしば、クリスチャンは、ある人の説教を聞いているときに、「また同じことを話している」と思って過小評価します。けれども、私たちはいつも、同じことを聞こことを通して、自分自身を評価して、悔い改めるべきところは悔い改めて、神の前に正すことを行なっていかなければいけないのです。私たちは礼拝の中で「主の祈り」を共に唱えますが、主の祈りの言葉を知っていることと、祈っていることとは別のことです。主の祈りを自分の信仰生活に当てはめ、具体的に主の祈りを手本として、主の惠の御座に出て行き、主との親しい交わりを持って祈っている人だけが、本当に知っている人なのです。私たちが心を開き謙遜に、主のことばに耳を傾けるとき、耳にたこができるほど聞いていることであっても、新しく主から語られることがあり、慰めを得たり、チャレンジを受けたりします。同じことによって、私たちの心が奮い立つ必要があるのです。聖書通読をしていても、昨年読んだ同じ箇所が、今年は違ったメッセージで迫って来ることを体験されていると思います。神のことばは生きていますから、同じことばであっても毎回新しいいのちのことばとしてあなたに語ってきます。
13節に「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」とありますが、
「地上の幕屋」とは、キリスト者の肉体のことです。パウロが、肉体を「地上の幕屋」とし、復活のからだを「神の建物」として語っている部分があります。第二コリン人への手紙5章1、2節をお開きください。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます」。(第二コリント5章1,2節)
また、キリストの来臨についても第一テサロニケの手紙5章23節に、
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(第一テサロニケ5章23節)と、来るべき日があることを明確に語っています。
私たちの肉体は神に造られたすばらしい機能がたくさんありますが、けれども病気になったり、衰えたりする不便さを持っています。そして、朽ちる者です。何故なら肉の体は不死を着ることができないからです。しかし、新しく与えられる体は、天国に住むために造られるものであり、朽ちることがありません。
14節では、主はそのことをはっきりペテロに知らされたといっています。
「それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」(14節)
ペテロはおそらくこのとき、ローマにいるのではないかと思われます。彼はイエス様から、「しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」(ヨハネ21章18節)と預言されました。ペテロは今、慰安まさに殉教しようとしています。自分が幕屋を脱ぐその前に、迫害の中にあるキリスト者に、この手紙をしたためているのです。15節に
「また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。」
とありますが、ペテロが死んだ後も、いつまでもクリスチャンが霊的成長の中に生きてほしいと願って、この手紙を書いています。教会における働きは、多くの場合、その指導者が死んでしまうことにより、その勢いがなくなってしまいます。けれども、指導者ではなく、指導者によって教えられたことを守りつづけるなら、そこからまた新しく運動が始まるのです。ペテロはそのことを願っています。
皆さんは「クォー・ウァーディス」という小説をご存知ですか。ポーランドの作家シェンキェーウィチの作品です。彼はこの作品で1905年にノーベル賞を受賞しました。少し内容を、紹介します。
ローマ帝国のネロ帝時代、小アジア遠征からローマに帰還した若い武人ウィニキウスは、ある将軍の家で見かけたリギアという娘にひとめ惚れをします。リギアはローマに征服されたリギイ族の族長の娘で、じつはキリスト教徒でした。ウィニキウスは叔父のペトロニウスに頼みこみ、そのかいあって皇帝ネロの催した饗宴の席で、ウィニキウスはリギアに近づく機会をえます……しかし、リギアは好意をいだきつつも姿をくらまします。数ヵ月後、ネロは「不滅の詩」をつくるためにローマに火を放ちます。ウィニキウスは火炎さかまくなかリギアを捜し求め、ついに二人は出会い、ウィニキウスはキリスト者となります。卑劣なネロはローマ炎上の犯人をキリスト教徒だとして、キリスト教徒の逮捕と虐殺に狂奔するのです。ローマ市民もネロのことばを信じ、コロセウムは虐殺の修羅場と化します。ペトロニウスの奔走も功を奏さず、ついにリギアの処刑の番がきます。……
このような、物語の中でペテロが登場しているのです。
「クォー・ウァーディス」とは「主よいずこへ行きたもう」という意味の使徒ペテロが発した言葉です。ローマの弟子たちが迫害が迫る中で、指導者であるペテロを逃がそうと、ペテロをローマから逃がすのですが、その途上でイエス様と出会います。そこで、ペテロは「主よいずこへ」と尋ねると、主は「わたしは、あなたの為にもう一度十字架につくために、ローマに行くのです」といわれます。ペテロはそのこたえを受けて再びローマに赴き、殉教するのです。
このペテロの手紙を読むと、まさに死を直前に感じているペテロのことばと重なります。
聖書に戻りましょう。
「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」(16節)
ペテロは第一の手紙で、「イエス・キリストの現われ」について教えました。主が再び戻って来られることについてです。ペテロは、このことは作り話ではないと強く訴えかけています。その理由として、自分自身が、主の威光を目撃しているからです。
「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」(17節)
ペテロとヨハネとヤコブがイエス様に呼ばれて、いっしょに高い山に登りました。そこでイエス様は、その姿が変わり、真っ白な衣に変わり、神としての栄光の姿で光り輝いておられました。また、そこにはモーセとエリヤがいて、これからエルサレムに向かうことを語り合っていました。そして父なる神の声があったのです。「これがわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である」と。これは、後に来られるイエス・キリストの威光のごく一部であったわけです。ペテロはこれを目撃しており、決して作り話ではないことを強調しています。モーセとエリヤは律法と預言者という聖書(当時の聖書は旧約だけ)全体を現す人々ですから、聖書がイエスの受難と栄光とを語っているとも言える箇所です。
「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。」(18節)
ここに驚くべき言葉が書かれています。「確かな預言のみことば」ではなく「さらに確かな預言のみことば」となっています。ペテロは、自分が目撃したことよりも、預言がさらに確かであると言っています。普通は、目撃していることほど、確かなものはありません。証人の証言が裁判において有効にされるように、ペテロの証言も非常に確かなものです。
しかし、それよりもさらに確かであると言えるのはなぜか?それは、あまりにも正確に、完全に成就している預言があるからです。マタイによる福音書を読まれてください。マタイの福音書には、「預言者を通して言われたことが、成就するためであった。」という言い回しが数多く出てきます。イエスさまの誕生の場所、その系図、宣教、十字架、復活など、約二千年前に来られた来臨によって、実に三百以上の預言が成就したと言われています。そして今、私たちには、イエスの再臨について、千五百以上の預言があると言われています。これらを一つ一つ紐解いて、これら預言のみことばに思いを馳せる必要があるのです。そこで次の節があります。
「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」(19節)
「夜明け」というのは、主が再び戻ってきてくださることです。今は夜明け前であり、主が来られる前夜であると言えます。このことばを、心の中でともしびとして目を留めておくとよい、ということであります。
「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」(20節)
今話した、イエスさまが来られたときの預言の成就についてですが、それらがみな、比喩的に解釈する必要がなく、書かれてあることをそのまま読み取ることができるものでした。過去にユダヤ人は、メシヤがどのような方であるかについて分からないでいました。預言には、栄光に輝く力強いメシヤの姿と、卑しく、苦しみを受けるメシヤの姿のどちらもが書かれているからです。あるラビは、二人のメシヤがいるとまで言いました。そこでユダヤ人は、受難のメシヤは比喩的に解釈して、栄光のメシヤの預言をそのまま受け止めました。したがって、イエスさまが初めに来られたときに、この方をそのまま受け入れることができなかったのです。へりくだって、目立つことがなく、しもべとしての生き方をイエス様が行なわれていたからです。
私たちが、再臨のイエス様について預言を調べるときには、その言葉を、そのまま受け入れていれさえすれば良いのです。 「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(21節)
ペテロは、手紙のこの箇所以外にも、預言が聖霊に動かされた人によって書かれていることを話しています。
使徒の働き1章では、「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。・・・『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』『その職は、ほかの人に取らせよ。』」(16、20節)
ルカはここで、ダビデが語ったときに、それは聖霊が彼を動かしておられたということを言っています。
ダビデ自身も、聖霊が自分を通して語らせておられることを話しています。それは、第二サムエル23章2節です。「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。」イエスさまも、ダビデについて同じことをお語りになっています。マルコ12章36節です。「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。』」 このように、預言は聖霊に動かされた人によって書かれており、人間の思いによって書かれたものではありません。
そして、有名な第二テモテ3章16節があります。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」一言でいえば、「聖書は神のことば」です。当たり前のように聞こえますが、しかし、ペテロは、「これらのことを思い起こさせたい」と言っています。預言のみことばに心を留め、そしてキリストの知識にあってさらに成長します。自分はこの地点で満足だというのではではなく、敬虔に達しているなら知識を、知識に達しているなら自制を、というように、前に前に向かって進むときに、私たちがクリスチャンであることの存在意義が発揮されていくのです。
終わりに、みことばの真理を知り、みことばの約束に立って、命がけで宗教改革を成して行った、ルターのことばを持ってメッセージを締めくくります。
感情は、来てはまた去り
決して頼りにならぬもの
私が頼みにするのは、神の御言葉のみ
他の何ものも信じるに値せず
目に見える証拠がないではないかと
心にとがめを感じても
神は私の心より偉大なる方
その言葉は決して違えることがない
魂が肉体から離れ去る日まで
私は神の揺るがぬ言葉に信頼する
全てが過ぎ去ろうとも
神の言葉は永遠に堅く立つ
マルチン・ルター
イスラエルや世界の様子を見聞きするごとに、聖書の日時計の動きが早くなったように近頃感じます。主の来臨が戸口まで来ているようです。みことばに信頼し、主と人々に仕えていきましょう。「マラナ・タ
、主よ来たりませ」 お祈りいたします。
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