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知ってますか主イエスを 聖書箇所:ペテロの手紙第二1章1〜11節
[新改訳] ペテロの手紙第二
1:1
イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。
1:2 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。1:3
というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。
1:4
その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
1:5
こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、
1:6
知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
1:7
敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
1:8
これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。
1:9
これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。
1:10
ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。
1:11
このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。
きょうは、ペテロの手紙第二1章から学んでいきたいと思います。ここのテーマは、「主イエスを知る」ということです。それで、「知っていますか主イエスを」とタイトルをつけました。
優れた伝道者であり、三浦綾子さんの小説「ちいろば先生」のモデルであり、主人公の榎本保郎先生(1925-1977)は、私たちの生き方について二つの「しかし」があると言われました。
現実と神のことばとの間にずれがある。だから私たちは、そのいずれを、けれどもとか、しかしという言葉で埋める。その『しかし』には二つある。 一つは、神が私を愛すると言われる。しかし、こんな暗い現実の中にあって、どうしてそれが信じられようかという『しかし』である。 もう一つの『しかし』は大いなる『しかし』と呼ばれるもので、自分の現実は暗く悲しい、しかし神のことばだから信じようという『しかし』である。 言い換えれば、人間の側に立って神のことばを裁く『しかし』と、神の側に立って人間の現実をこえていく『しかし』である。そして、そのどちらの『しかし』に立つかが、私たちの信仰態度を決定するものであるが、聖書はいつも、いつもその大いなる『しかし』に立って語っている。
私たちは、宣教のことばを通して、神の恵みによって蒔かれた種から芽を出したのですが、イエス様は種まきにたとえで、良い地に蒔かれた種だけが実を結ぶと言われました。この良い地は、榎本先生の言われたその信仰がいつも大いなる『しかし』に立って語っている人ではないでしょうか。主の前に、役に立つ者として成長する為には、私たちと神さまとの信頼関係はとても大切なことです。主イエスを知ることなしに、神との信頼関係を築くことは出来ません。特に、週末の時代において、様々な試みが教会の外部や内部から起こってくると聖書は警告しています。ですから、私たちは目をさましていなければなりません。主に信頼して従うこと以外に、これらの試練に打ち勝つ術はないことをまず確認しておきたいと思います。
今日のテキストである第Uペテロの1章1〜11節には「イエスの神のとしての御力」のことが記されています。最初の1〜4節は主なるイエスの「栄光と徳」についてペテロは語っています。
神の栄光とは旧約聖書においては、神の尊厳、卓越性、完全性などすべてを現し、その御わざと顕現、臨在を通して現されています。新約聖書では神のひとり子イエス・キリストと結びついて表されています。また、徳は聖書の中であまり用いられていない言葉ですが、神との関係において、人が神の前で,生死いずれにおいても維持すべき態度という意味で用いられています。
1節において、ペテロは自分のことを「しもべ」と呼んでいます。原語のギリシヤ語では「デゥーロス」といって、ローマ時代の下級奴隷を指したことばです。ですから、ペテロのこのことばは、ペテロ自信のすべての権利を、主人であるイエス・キリストに明け渡しているということです。「私たちの神である救い主であるイエス・キリストの義」とあるように、私たちの義ではなく、父なる神がキリストによってお示しになった義を通して、私たちは救われたのです。
ペテロ第二の手紙の特徴は、「主イエスを知る」ということばにあります。3節にも、「私たちが知ったことによって」とあります。そして、この手紙の終わり、3章18節には「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」とあります。主イエスを知ることによる霊的成長、これがペテロの第二の手紙のテーマです。
ペテロの第一の手紙では、ローマによる迫害をクリスチャンが受けることを思って、「義のために苦しむことはすばらしいことであり決して罪のために苦しむことがないように」という勧めがありました。彼は自分の殉教が間近に迫っていることを知りつつこの手紙を書いたのですが、ここで「偽教師」に気をつけなさいと警告しています。2章には偽教師について詳しく書かれていますが、この手紙の最後の章において、「よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことのならないようにしなさい。」(3章17節)と締めくくっています。
第一の手紙では、外部からの苦しみについて取り扱われていましたが、第二の手紙では、教会の中から、内部からの悪について取り扱われています。この内部から出る動きに気をつけなさいと勧めているわけです。こうした偽教師は教会の中にあって、主を否定するようなことを言い、人から金をだましとり、また不品行を行なわせるような者たちですが、そのような者たちが教会の中から出てきます。ペテロはそのことを語るときに、ただ彼らに気をつけなさいと命じただけでなく、「イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と勧めています。霊的な成長が、偽教師、悪、罪、つまずきから自分を守る最大の武器だということです。霊的な目が、その人たちの偽善を見抜き、前もって防御する知恵を与え、またそのような人々を教会から追放することが出来ます。そういう意味でも、教会の指導者や執事、教会の中で人々の世話をする人々には日々の深い神とも交わりはかかせません。
私たちは、罪に対して敏感になり、とかく「どのようにして自分は罪を犯さないでいることができるか」についてその手段を考えます。しかし、自分で罪の世の世界から、自分を守ることは出来ません。いくらかは私たちにもその力はあるでしょう。しかし、悪魔は巧妙にあなたの欠点を攻撃してきます。あらゆる手段を使って神の子供たちから信仰を奪うことにやっきになっているのです。私たちの戦いは骨肉に対するものではなく、この暗闇の力、悪魔とその軍勢との戦いだからです。
例えば、神への捧げものである献金について最近の出来事からお証ししましょう。
ある兄弟が什一献金のことで神さまに示され、どのようなものでも収入の十分の一を主に捧げることで相談してこられました。 、「最近娘の為に蓄えていた定期預金が満期になったのですが、クリスチャンになる前に貯めたものでした。しかし、神様の前に、それはもともと神さまのものであることを示され、教会の働きのためにその十分の一を献金したい」と。その兄弟は、今、ある事情で仕事ができず、わずかな年金以外には収入がないのですか、そんな中で子供たちをサポートし、家族の為に日々祈り、地域の教会の方々に感謝を持って仕えておられます。そんな中でその十分の一である1500ドルを主の為に捧げられました。「先生の自動車の必要のために使ってください。」といわれましたが「今、教会にとって必要なことは、もっと主を知ることすから、教育伝道費として教会の図書の充実のために捧げてください。」といいましたら、兄弟はそのお金を私に委ねられました。6月の献金で教会会計が満たされたのは、そのような主への従順が、信仰によって表されたからです。 悪魔のささやきは、「そこまでしなくていいよ、皆なそんなことしていないよ。ほら、十一も捧げてない人がほとんどではないですか。」といいます。そして、神のことばに対する不従順をそそのかすのです。創世記でのアダムとエバが唆された同じ方法で、今も悪魔は、私たちを神の恵みと祝福から引きずり下ろそうとしているのです。あなたは、いかがでしょうか。あなたの心が金銭に執着していれば、悪魔はそこからせめてきます。子供のことであれば、こどものことを理由に、異性であれば、異性問題であなたをそそのかすのです。私たちは、巧妙な敵に対して、防御するすべを知るべきです。エペソ書の最後の章では、パウロはそのことを語っています。そのことはまたの機会に学びます。
先ほどの献金の例えにもどりますが、神は私たちが捧げても捧げなくても、あなたから十分の一、いやそれ以上を主はどちらにしても取られます。主のものは、必ず主の前に清算させられます。もともと主のものだからです。しかし、信仰によって捧げることは、その2倍の祝福を得ることであるとみことばは語っています。マラキ書3章を開いてみましょう。
[新改訳] マラキ書
3:8
人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。
3:9
あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。
3:10
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
3:11
わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。・・万軍の主は仰せられる。・・
3:12
すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。
全収入の十分の一を主にお返ししないことは、主のものを盗む罪であることを示された兄弟が、主のみ言葉に従うことの出来ることは何と幸いでしょう。このことは、従った者(惜しまずに捧げきった者)だけが体験できる惠みの世界であります。今、兄弟の周りで起こっている多くの感謝な出来事からもそのことが分かります。
私たちが罪を犯さないようになる為には、主と主の掟を知り、聖霊の助けによって自分の霊を強めること以外にはありません。神は霊に従って生きる民として、キリスト者を召されたのです。そして、何よりも主イエス・キリストの恵みと知識によって成長することこそが、私たちがつまずかないための安全装置であるのです。ペテロは第二の手紙の1章において、この霊的成長の勧めを行なっています。
「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」(3節)
私たちが、新しいいのちの中に歩むため、また敬虔に生きるための方法とその力は、「ご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知る」ことによってもたらされます。主イエスを知ることこそが、敬虔に生きるための神の御力が与えられる唯一の道です。コロサイ人の手紙には、「このキリストのうちに、知恵の知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2章3節)と書かれています。多くの人が、神からの力を得るために、何か他の新しい方法や新しい啓示を求めます。しかし、私たちには、キリストを知ることで十分であり、完全なのです。この方にこそいのちと敬虔のために神の御力が隠されているのです。
4節には、「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」(4節)
とありますが、聖書には神の約束が数多くあります。その聖書の約束のことばは、宣教のことばを通して救われた私たちも、自分のものとして受け入れることができるものです。これらの数々の約束をペテロは第一の手紙において、私たちに「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。」(第一ペテロ1章4節)と言いました。また、イエス・キリストが再臨してくださることについての約束も語りました。私たちはこれらの約束を自分のものとして受け止めることによって、世の欲がもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかるようになります。
さて、主日礼拝は主を知る為の主が建てられた、神の宮における主との交わりの最も公的な場所です。ですから、ここで、少し礼拝に出席することについてふれてみたいと思います。
日本ケズックの生みの親であるポール・リース博士の著書に「神にゆだねよ(原題:Christian:Commit Yourself)」という本がありますが、霊的な訓戒に満ちているすばらしいメッセージの書物です。そこからの抜粋です。
へブル人への手紙10章25節に
[新改訳] ヘブル人への手紙
10:25
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
[新共同訳] ヘブライ人の手紙
10:25
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
私たちは何故、毎週礼拝に出席しないのでしょうか。理由は少ないのですが、弁解はまことに多いようです。
例えば、天候に対するいいわけがあります。暑すぎるとか、寒すぎるとか、雨ばかり降っているとか、風が強すぎるとかいうのです。教会出席が天候によって左右されるはずがありません。例えば仕事上での約束とか、宴会に出席するときとか、ゴルフ大会に行くときとか、バスケットボールにいく場合となどは寒暖計の上がり下がりには影響されず、ただ教会での、神さまと貴女の約束だけに影響されるのです。
牧師に対するいいわけもあります。牧師の説教が長すぎるとか、牧師がまじめすぎるとか、冗談を言いすぎるとか、余りにも詳細で学問的過ぎるとか、いろいろあります。しかし、牧師の説教に欠点があっても、本当に注意深い祈りに満ちた霊は、主の食卓から一片の肉でも得ることができるはずです。また、たとえ説教が悪くても、讃美歌の中には、あなたを1週間の単調な生活から救い出して、祝福に満ちた神のみそばへ引き上げてくれる、何かがあるはずです。もちろん、これらのことを指摘したのは、言い訳に答えるためです。あなたは、言い訳には、自分で何も答えることが出来ません。
更に、人々についての言い訳があります。 「私はなんとなく行きたくないのです。」「礼拝に出席しても何も得るところがないと思いますので。」「行けば何かと気をつかわなければならないと思います。」「私は礼拝中眠ってしまうと思いますので。」といったたぐいです。怠慢や不熱心の上、いろいろ思いわずらっていたなら、いつ教会に行く機会があるのでしょうか。わたしたちが、いろいろな、あてにならない言い訳に時をついやしている間にも、キリストの言葉は「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」と私たちに語り続けています。
そして、次にような詩が紹介されています。それは、イエスが、日曜日に欠席した人を探している光景を歌った詩です。「あなたはどこにいたのですか」という、少し耳障りの悪い詩です。
「わたしは先週貴女の教会へ行った。
わたしは会堂の通路を行きつもどりつして、
あなたの席が空いているのに気がついた」と
主はやさしくほほえみながらおっしゃった。
「はい、わたしは家におりました」
「遠くから友だちが、週末にドライブして来ましたのでわたしたちは一日中家におりました」
また、「わたしはひどい頭痛で、高熱の為に悩まされました。」
「わたしたちは今朝、寝過ごしました、でもわたしは行ける時には必ず行きます。」
主は口を開こうとしながら
悲しげな面持ちでわたしを眺め、
やがて「わが子よ」といわれた。
「一週間には、他に六日間あるではないか。」
ゆっくりと主が立ち去って行かれるとき、わたしは主の御心を悲しませていたことを知った。
そこでわたしは心に誓った。二度と再び聖日にわたしが欠席しているのを主がごらんになることがないように。
主がこころを痛められてことを知り、悔い改める魂は幸いです。 ここで皆さんに、なぜ教会に規則的に出席しなければのかということについて、三つの理由を考えていただきたいと思います。
第一に、私たちは教会の集会が必要です。なぜなら集会によって、上を見上げる信仰が起こされるからです。信者は自分の家で静まり、自分の部屋で個人的に、大祭司であるイエス・キリストに近づくことができます。しかし、信者が共に集い、一つ思いになって礼拝するならば、いっそう豊かな祝福を受けることができます。同時に、主の御血汐の力が私たちをきよめ、主の十字架の御光がわたしたちを照らし、主との親しい交わりの奥義がわたしたちを強めるということを、はっきり知ることができるのです。
第二に、教会は私たちを足しげく、しかも忠実に出席することを要求します。なぜなら、集会が私たちの希望の目を開かせるからです。ヘブル人への手紙10章23節
[新改訳] ヘブル人への手紙
10:23
約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。[新共同訳] ヘブライ人の手紙
10:23
約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。
この希望とは何でしょうか、37節に
[新改訳] ヘブル人への手紙
10:37
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
[新共同訳] ヘブライ人の手紙
10:37
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。
とあるように神の都、天国への希望です。
私たちの霊は、アブラハムの霊のように
[新改訳] ヘブル人への手紙
11:10
彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。[新共同訳] ヘブライ人の手紙
11:10
アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。
といわれる都を待ち望んでいるのです。
第三に、教会に出席することは、愛を実践する為にも必要です。
英語のウイリアムズ訳では「互いに愛と善行を勤むために常にお互いを重んじ合おうではないか。」と翻訳しています。 私たちの中から、キリストの贖いと御支配を除けば、私たちはおそろしいほど利己的になってしまいます。自己中心主義は私たちにつきまとう暗い影です。ですから、この真実でない自己を十字架につけることは、重要な意味を持っています。自我を建てようとする心が、憤り、苦い思い、復讐、ねたみとなって出てきます。これを叱責し、きよめるものは十字架の血のほかにありません。わたしたちは、賜物と惠によって、他の人々に対して、思いやりの心を持つことが出来るのです。
信仰が築き上げられ希望が与えられ、愛が増し加えられる。――――これこそ教会です。私たちが常に誠実さを持って、あらゆるすぐれた訓練を受けなければならない教会の集会は、こういうものなのです。私たちはそのように、毎週礼拝、祈祷会、集会に出席し、そこで得る神のめぐみを、他の人に分け与えるのです。
さて、続けて5節から11節をみてみましょう。ここでは、「信仰から愛へ」成長するように勧められています。
「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(5〜7節)
ペテロは、「あらゆる努力をして」と言っています。これは「勤勉になって」とも言うことができます。私たちの霊的歩みが、一定のところに留まるのではなく、一歩一歩前進していかなければいけないということです。
「信仰には徳を」と初めにあります。「イエス様を信じます。」という告白をしただけでとどまるのではなく、それより一歩先に成熟に向かって進んで行かなければなりません。いつまでも、霊的な赤子で、受けるだけのものでなく、私たちが主から惠を分かち合う、与えるものへと成長するのです。そこで、「徳には知識を」とあります。イエス・キリストを個人的に、体験的に知っていくこと、神のみことばを通して知っていくことを言っています。ですから、聖書を読み日々のデボーションを持つことは欠かせないことです。そして、「知識には自制を」とあります。知識を得ることで行き過ぎにならないように、自制が必要です。セルフコントロールです。そして自制しながら知識を得ていく過程で「忍耐」が加えられます。それから、「忍耐には敬虔を」とあります。ただ我慢するだけでなく、その中で神のご性質が自分のうちに形づくられていくようになります。そして「敬虔には兄弟愛を」とあります。敬虔であるということは、自分自身だけの問題ではなく、人に向けられる愛となって現われていくということです。そして、「兄弟愛には愛を」とあります。兄弟愛は感情のレベルのものであり、相互関係で成り立っていますが、そこからさらに一歩踏み出て、霊的な深い愛へと神のご性質があなたに形作られていきます。しかし、このことは御霊の働きであり、主のみことばに従順することによってのみ結ぶ御霊の実なのです。ここでも、忘れてはならないことは、主にお委ねするときに、神の御霊が私たちのうちでキリストをご性質かたちづくられるということです。
8節をご覧ください。
「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」(8節)
イエス・キリストを知ったその目的は、「実を結ぶこと」です。イエスさまが、ヨハネの福音書の15章において、
[新改訳] ヨハネの福音書
15:1
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
とあります。
私たちの生活から実が結ばれるようになるためには、どうすればよいのでしょうか?それが、今書かれていた、「信仰から徳へ」「徳から知識へ」「知識から忍耐へ」「忍耐から敬虔へ」「敬虔から兄弟愛へ」「兄弟愛から愛へ」という鍛錬を、御霊の助けによって繰り返していくのです。その中であなたの中にこれらの実が結んでいくのです。このことが聖化する(神によって聖い者へと変えられていく)ということです。
「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」(9節)
もし実を結ばせないなら、その人は「近視眼」であるとは、つまり、救われていない人と変わらないと言っています。これでは、自分たちの罪がきよめられたとしても意味がありません。私たちは、成長しなければ後退しなければいけません。「現状維持」という言葉は、クリスチャンの霊的歩みの中ではあり得ないのです。
「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。」(10節)
私たちは、キリストにあって選ばれ、召されました。けれども、その選びは、あなたから実が結ばれていることによって初めて確かめられるものです。ですから、ペテロは、選ばれていることを確かなものとするために、ますます熱心になりなさいと勧めています。あなたがたは選ばれているのですから、救われているかいないのかわからないようにするのではなく、はっきりと分かるようにしなさいと命じています。
「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。」(11節)
皆さんは天国に入ることについて、どのような意識を持っていますか。「私は罪を犯しているから、かろうじて救われるかもしれない。」という意識でしょうか。それとも、その確信もないですか。しかし、キリストを信じたあなたは確かに救われているのです。ヨハネの第一の手紙にはそのことがはっきり記されています。
よく、イエス・キリストを信じることが天国行きへの切符のように言われますが、ペテロはここで「豊かに加えられる」と言っています。永遠の御国の中に入る希望は、私たちが選びを確かにしていくなかで豊かになっていくのです。黙示録に出てくる、あなたの名が記されたいのちの書にはあなたが積んだ天の宝が増し加えられていくのです。私たちの為に神があらかじめ用意された、沢山の祝福のリストがあります。それを、あなたが手にするのは、あなた自身のキリストから贖われた後の生涯の歩みです。あなたがそれを手にする為には、主のしもべとなって主のことばに仕えていくことではないでしょうか。主がアダムを探したように、「あなたはどこにいるのか。」と言われるような者ではなく、「よくやった、忠実なしもべよ。」と言われる生涯でありたいと思います。
あなたは主イエスを知っておられますか。どれほど知っておられますか。
私はここから出て行かれる皆さんが、実を結ぶ主の弟子として遣わされることを心から願っています。主は「私があなたを選んだ」といわれたのです。それは、主があなたが、ペテロやパウロのように、過去はどうあれ。信仰によって大いなる者へとなることを知っているからです。あなた以上に主は皆さんのことを知っておられるのです。皆さんは良い実になることを望まれますか・・・・。さあ、目あげて主の眼差しを見ましょう。あなたには、主はどのような眼差しを向けておられるでしょうか。皆さんのこころで聞いてみてください。お祈りいたします。
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