神への祈りと、祈りに答えられた信仰者の責任
今日はユダ王朝のヒゼキヤ王の聖書の記録からお話したいと思います。聖書箇所が長いので、今日はお読みしませんが、後で、もう一度読んでみてください。
第二列王記U18−21章、第二歴代誌29-33章、イザヤ書36-39章です。
こんな話があります。タイトルは「規則」です
婦人が銀行の窓口で出納係に言った。
「小切手を振り出してちょうだい。」
「規則ですので、身分証明書をお見せください」と係は言った。
婦人は、まあと言ったきり声が出なかったが、ようやっとのことこう言った。
「でもね、ヨナタン、私はあなたの母親なのよ。」
もちろん、たとえ母親でも、やはり提示すべきですね。すばらしい息子です。
これは、この世のきまりですが、大切なことです。
神の律法は、主がご自分の存在を証しさせるためにあるだけでなく、イスラエル民族を通してすべての諸国民に、神の祝福が行き渡らせるようにするために与えられました。律法の規定は、愛と憐れみを基本としています。
例えば、「在留異国人を苦しめてはならない、しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。」(出エジプト記22章21節)など、やもめ、みなしごなど、弱き者たちへの配慮、保護をはじめとする教えが数多く出てきます。律法は、神のご性質、ご性格が刻印されているのです。
律法は、イスラエル民族を含むすべての人々を、主の元に立ち返らせるためのいのちの道、義の道なのです。預言者達は、何度も何度も神に立ち返るよう、律法に立ち返るようイスラエル民族に呼びかけてきました。しかし、新約になりますと、その預言者達の呼びかけが止まってしまったかのように理解されているのが、 今のキリスト教会なのではないでしょうか。実際には、バプテスマのヨハネや主イエスさまご自身も、預言者達とまったく同じ呼びかけをしているのですが、「主を 信じる者は義と認められ、律法から解放、すなわち、律法は不要になった。」という理解が今キリスト教会でなされてしまっているのです。しかし、それは主イエスの呼びかけとは異なるものでした。
私たちは、キリストにあって神の律法を成就したものとして、神の子供とされました。それは、同時に自分に死んでキリストに生きる事を信仰告白し受け入れたのです。キリストは父なる神を信頼し、死に至るまで従いとおしました。私たちもキリストに倣う者として、主の生き方に従ってまいります
神の律法は旧約の時代、代々子孫に語り告げられました。神はイスラエルの祭りや、祭司と神の民がなすべき、守るべき律法を祝福の約束を与える恵みでくださいました。
預金を受け取る為に、身分証明書を提示して初めて受け取ることが出来るように、私たちも、子供たちが自分の口座を持つときに、そのように教えます。同じように、義なる神の教えを私たちは教え、次世代に宣べ伝える責任があるのです。
新約聖書のルカの福音書に「すべて、多く与えられた者からは多く求められ、多く任された者からは更に多く要求されます。」(ルカ12章48節)とありますが、私たちは管理人として、自分に委ねられた人生のすべてに責任があります。私たちの神は、救われ神の民となったわたしたちが、主の与えられたものをどうのように管理したか、最後の審判のときに問われる方でもあります。
今日は、ユダ王朝のヒゼキヤ王の生涯から、このことについて、私たちキリスト者にとって重要な真理を学びたいと思います。
一つは「謙遜は栄誉に先立つ」と同時に「高ぶりは滅びに先立つ」こと。
もう一つは「祈りがかなえられた後、その与えられた恵みに答えて主のためにより多くの実を結ぶ責任がある」ということです。
旧約聖書の箴言18章12節に「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」という言葉がありますが、人の心に高ぶりが来ると人間は不幸になります。しかし、謙遜は栄誉に先立つとあるように、人の心が、「へりくだる」ことによって幸せになることが出来ます。「へりくだる」、この簡単な言葉があなたのものとなったら、どんな問題からも脱出することが出来ます。
このヒゼキヤ王はヨシヤ王と並んでユダ王朝の最良の王たちの一人です。彼は父王アハズの残した邪悪な偶像礼拝の遺物を一掃して、民を主に対する正しい礼拝に復帰させ、「ヒゼキヤはイスラエルの神、主に信頼した。そのために彼の後にも先にも、ユダのすべての王のうちに彼に及ぶ者はなかった」(第二列王記18章5節)と記されるほどの人物でした。
神の祝福によって順風満帆の日々を過ごしていたヒゼキヤ王に試練がやってきました。アッシリア帝国の王がユダ王国内の町々を攻め取り、首都エルサレムに迫って来たのです。彼はアッシリア王から届けられた挑戦状を主の御前に広げて祈りました。「主よ。あなただけが神です。生ける神をそしるアッシリアの王の言葉を聞いてください。どうか、私たちをお救いください。地のすべての王国があなただけが神であることを知るために。」預言者イザヤを通して主の言葉が告げられました。「私のしもべダビデのために、私はこの町エルサレムを守って救う。」
その夜、エルサレムを包囲していたアッシリアの陣営に主の使いが現れ、一夜の内に18万5千のアッシリアの軍勢を打ち滅ぼしました。更にアッシリア王セナケリブは自分の息子らに剣で打ち殺されました。
この時以来、ヒゼキヤ王はすべての国々から尊敬の目で見られるようになり、多くの人々が贈り物を携えてエルサレムに来るようになりました。この順境の日々を楽しむヒゼキヤ王に新たな試練の時がやって来ました。彼は重い病気にかかったのです。預言者イザヤによって主の言葉が告げられました。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」ヒゼキヤ王は大声で泣きながら祈って言いました。「主よ。私が真実と真心をもってあなたの前に歩み、あなたの目にかなうことを行ったのを思い出してください。」主は彼のこの祈りに答え、「わたしはあなたを癒す。そして、あなたの寿命を15年増す。」と約束されました。主はヒゼキヤの全快のしるしとして日時計の陰を10度バックさせる奇跡を起こされました(第二列王記20章1〜11節)。
ヒゼキヤ王の病気全快のニュースを聞いたバビロンの王が全快祝いのため使者を送ってきた時(イザヤ39章1節)、主はヒゼキヤの心を試すために、彼のなすがままに任されました(第二歴代志32章31節)。ヒゼキヤは病気全快と15年延命の主の約束に有頂天になっていた上、大国バビロンと軍事同盟を結びたいという下心から、バビロンの使者に王宮の宝物蔵や武器蔵にある一切のものを見せてしまいました。
このことは、ヒゼキヤが神のテストに不合格となったことを意味しました。ヒゼキヤは神に寄り頼まず、自分の財力と大国バビロンに寄り頼んでいたことが明らかになったからです。このことによって神の怒りが下りましたが、彼が再び国民と共にへりくだったため、主の怒りは彼の時代には下らず、彼の息子たちの時代に下ることが預言者イザヤを通して預言されました。
その預言を聞いて彼は、「その預言(主の言葉)はありがたい。自分の生きている間は平和で安全だから」と考えました(第二列王紀20章19節)。どこかの国の政治家のような、彼のこの能天気な考え方が間違いであったことが彼の息子・ユダの最悪王マナセによって立証されました。息子のマナセは父ヒゼキヤ王の死後、直ちに王位を継承して12歳でユダの王となりました。ということは、マナセは父王の病気回復後15年の延命が許されて2-3年後に生まれたことになります。すなわち、ヒゼキヤが最初のイザヤの預言の通り病死していればこの極悪王は生まれてなかったのです。あるいは、ヒゼキヤが「自分が生きている間だけ平和で安全ならいい」という身勝手な考えを持たず息子の時代も平和で安全であるように、息子に善良な王となるための万全な教育を施し、かつ息子のために祈っていたなら、このような最悪と悲惨な時代は避けられたかもしれません。
善良な父王ヒゼキヤの治世は29年だったのに対して、極悪の息子マナセの治世はその倍に近い55年間という長期政権でした。マナセは晩年バビロンの捕囚となりましたが、へりくだって主に祈ったため、主の憐れみによってエルサレムに戻されました。しかし、彼の治世の大半は異邦人よりも更に悪いことを民に行わせ、罪のない人々の血を大量に流すという極悪非道の最悪な治世でした(第二列王記21章9、16節)。父王ヒゼキヤが15年延命後に課せられた神のテストで不合格となり、その上、国の将来についての王としての誤った考え方をもっていたため、自分の善良な治世の期間をはるかに上回る長期の悪政の時代を招き、民を苦しめ悩ます結果となったのです。
主に祈って格別の恵みを与えられた者は、その恵みを最大限に生かして、主に豊かな実を結ぶための努力と、子孫の霊的祝福のための祈りと教育とを怠ってはならないことをヒゼキヤ・マナセ親子の史実は如実に物語っています。
また、私たちは上に立てられている人たちのために絶えずとりなさなければならないのです。
先に紹介した箴言の18章12節のみことばは新共同訳では「破滅に先立つのは心の驕(おご)り。名誉に先立つものは謙遜。」とあります。
現代でも通用するそのことばの真意に感心します。ただ、問題なのは、前半部分は、政治の混乱をはじめ至るところで実例を見ることが出来ますが、後半部分の実例を探すことは、残念ながら極めて少ないということです。
聖書は神のことばとして、繰り返しこの警告と祝福を宣べています。ペテロは手紙の中でこのように書きました。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神がちょうど良い時に……。」(ペテロの手紙第一5章5〜6節)
ペテロは、信者を攻撃するサタンの悪賢い陰謀に用心するようにと強く警告し、利己主義と高慢とを特に警戒すべき態度としています。サタンは色々な人間関係を使って攻撃してきます。緊張した人間関係ほど教会生活をだめにするものはないからです。
イスラエルの王であったソロモンに、天地の造り主なる神があらわれて次のように語られました。
「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(歴代誌第2 7章14節)
「みずからへりくだり」とありますが、どんな問題の中にあっても、他人のことよりもまず、自分自身が「へりくだる」ことであるというのです。「祈りをささげ」とあるようにあなたの持っている問題を、あなたの造り主である神さまに、全てを打ち明けるのです。「わたしの顔を慕い求め」とありますが、真剣に神さまに呼び求め、お祈りするなら必ず生きている神さまがあなたに出会ってくださいます。そのために「その悪い道から立ち返るなら」とあるように自分の罪を神さまに告白して赦しを求めてください。その時、愛なる神があなたの祈りを聞かれ、あなたの罪を赦し、あなたの心に、あなたの家族に平安と、幸せを与えてくださいます。とにかく「へりくだる」ことこそ幸せの道です。
ある人が「リスチャンから謙遜を取り去ったら、果たしてそこに信仰を見い出すことができるであろうか。」
と言いました。 謙遜の最大の模範は、イエスさまです。主イエスに心から従い、教えられやすいものとなりたいですね。お祈りしましょう。
関連聖書箇所:第二列王記U18−21章、第二歴代誌29-33章、イザヤ書36-39章