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「礼拝とささげもの」 11/17/2003 礼拝メッセージから
今日は礼拝とささげものについてです。
いつも賛美の時に用いる新生讃美歌の初めのページを開けると、左側に「主の祈り」、右側に「教会の約束」が書かれています。それは、主なる神を覚えて祈り、神さまの前に神さまの恵みを感謝し、御心を信じて約束を守ることがとても大切な事だからです。神の教会とはそこに集う・キリストに贖われたわたしたちひとりひとりのことです。そこにはこのように書かれています。これがCavenantと呼ばれるものです。
教会の約束
「私たちは神のめぐみによって、イエス・キリストを主と信じ、バプテスマをうけて、主の教会に加わったので、聖霊の導きによって、喜んで互いにこの約束を致します。
私たちは、主にある兄弟の愛をもって愛しあい、互いの喜びと悲しみを共に分けあいます。
主の日の礼拝、そのほか教会の諸集会につとめて出席し、教会の交わりのきよくなること、栄えることを祈ります。バプテスマと主の晩餐の二つの礼典、また聖書の教えと、教会の定めた秩序を守って、教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものと信じます。
私たちはこの教会をささえ、全世界に主の福音を宣べ伝え、神のみむねの行われるために、喜んで献金をいたします。
個人的な祈りと、家庭の礼拝を努め、神よりあずかった子どもを、神のみむねにそうように教え育て、また隣り人を救い主に導くため、よいあかしをたて、主と会う日まで、この約束を固く守ります。」
私たちは、この契約の上に、わたしたちが目指すビジョンを掲げて契約を結び、主に期待して成長していくことを願っています。ですから、今日これから語られるメッセージを主からのものとして、心を開いて受け取ってください。それは、神の祝福が教会を通してあなたの人生に豊にもたらされる為です。
今日の聖書の箇所と今日の聖句を開いて、ここでみことばが私たちに何を語っているか見て行きましょう。
最初にヨハネの福音書12章1〜11節を見て行きましょう。
[新改訳] ヨハネの福音書
12:1
イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2
人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4
ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5
「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6
しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7
イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
12:8
あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」
12:9
大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
12:10
祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
12:11
それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。
皆さんはマリアがイエス様になした行為を、どのように思われるでしょうか。この当時、この1リトラのナルドの香油はおよそ1年分の収入と同じ価値で、とても高価なものでした。それを一瞬のうちに浪費したとも取れる行為でした。ユダだけでなく他の弟子たちも思ったかも知れません。「もったいない」「売って、貧しい人たちに施したらどうか」と非難の目をそそいだのです。
しかしイエスはマリアの行為をよしと認められました。もっともらしい、弟子たちの抗議を退けられました。また、そればかりでなく、マリアのした行為は福音と共に宣べ伝えられ、記念としていつまでもおぼえられるでしょうと言われたのです。一見無駄な浪費と思われたこの香油そそぎが、私たちの贖いの代価として死に渡されるイエス様の葬りの備えだったのです。言い換えれば、神のみこころだったのです。
それでは、聖書はこのことを通して私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。
第一に、正論が神の前に常に正論とは限らないということです。神は心を見られる方です。弟子たちが非難したのはマリアがそれをしたからでした。もし、彼らがマリアの香油を手にしたら本当に売って、貧しい人に施すことができたでしょうか。それが、自分のものだったら果たして同じことばが言えたでしょうか。
イエスは人のことばにとらわれないお方です。ことばを生む人の心を御覧になられるのです。彼らは貧しい人々といつも一緒にいました。ですから、いつでも助けることが出来たはずです。彼らは逆にマリアの行為を通してさばかれることになりました。
第二に、マリアとその兄弟ラザロ、そして姉のマルタはこの行為を無駄とは考えていませんでした。それより、兄弟ラザロを死から連れ戻してくださった主に感謝の心でいっぱいでした。それは、イエスを通してこの家に与えられた神のすばらしい恵みに対する感謝だったのではないでしょうか。 わたし達も、もし不治の病で死を宣告された時、少しでも生きたいとそこから癒される為には何もかも投げ出すのではないでしょうか。
私は、父親が自分の息子である長男の脳腫瘍のために、様々な宗教のところにいって祈祷してもらい、借金のためにすべてを失った人を知っています。しかし、キリスト教会には来ませんでした。その時、家族が知らない間に作った父親の借金と長引く弟の登校拒否で、家は崩壊寸前でした。息子は20歳という若さで召されましたが、その家族のために祈り、助けをした牧師やクリスチャンの友人の愛ある献身的な奉仕を通して、お母さんと弟が救われました。そして、神の知恵をいただいた牧師のアドバイスによって、家を抵当に取られることからも守られたのです。
あなたは、あなたを愛し、あなたの幸せのために道を備えてくださり、災いから守られる方に感謝をしないでしょうか。マリアはこの行為を通して、本当の意味で主を礼拝したのです。主を愛し、心をささげたことの行為としての香油注ぎだったのです。
第三に、それは葬りの為の香油となりました。マリアがこの地点でイエスの十字架の贖いの死を知っていたわけでは決してありません。しかし、彼女のした行為が神のみこころと深くかかわることになりました。神は、ご自身に対する真実な思いとそれを表す行為を用いて、神のわざを行う者としてくださるのです。
ローマ人への手紙12章1節で使徒パウロはこのように言っています。
[新改訳] ローマ人への手紙
12:1
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
さて、礼拝とは何でしょうか。皆さんはクリスチャンとして神を礼拝しておられるでしょう。日曜日だけでなく、日々の生活の中で、個人的に礼拝をささげておられる方もいるでしょう。皆さんは礼拝の中で何を意識しておられますか。何を考えておられますか。
新約聖書の中で一般に「礼拝」と訳されているギリシャ語は「プロスクネオー」で、口づけするとか、ひれ伏して神に対して尊敬や敬意をあらわすことであり、また神への絶対服従を誓うことであり、感謝することを意味します。
さらに用いられているギリシャ語は、「ラトリューオー」で、神に誉れを与える、敬意をあらわすという意味があります。どちらの語にも「与える」という意味が含まれています。つまり礼拝は、神を信じる(信頼して従う、かみのことばを受け入れる)者が神に「与える」ことであり、言い換えると「ささげる」ことなのです。 ですから礼拝とささげることとは切り離せないことがお分かりいただけると思います。
礼拝はさらに本質的ないくつかの内容を持っています。
第一に、礼拝は、天の父なる神への応答です。
神の恵み、神の愛に対して、私たちが主のあわれみにお応えして行くことは礼拝の重要な部分です。応答するとは、関係を結ぶことです。あなたは、だれかに名前を呼ばれたら「はい」と応答するのではないでしょうか。それと同じように、礼拝は、神の呼びかけ、神の愛、神の恵みに対する私たちの応答なのです。ですから「はい」と応答しないことは、神と関係を持ちたくないとの意思表示になります。私たちが心から喜んで、自発的に、「はい」と答えるとき、そこに礼拝(神との関係)が生まれるのです。
第二に、礼拝とは、神のすばらしさ、麗しさ、神の持つすべての性質をほめたたえ、崇めることです。
礼拝は神を賛美しほめたたえることです。神に称賛の声をあげ、神を誇るのです。「ハレルヤ!!」のことです。詩篇の中には、このことが溢れています。今日は詩篇135篇1〜3節を開いてください。
[新改訳] 詩篇
135:1
ハレルヤ。主の御名をほめたたえよ。ほめたたえよ。主のしもべたち。
135:2
主の家で仕え、私たちの神の家の大庭で仕える者よ。
135:3
ハレルヤ。主はまことにいつくしみ深い。主の御名にほめ歌を歌え。その御名はいかにも麗しい。
ある人は手をたたき、ある人は踊り、ある人は手を高く挙げて主を賛美するでしょう。
私たちはすばらしいもの、うるわしいものに出会った時、喜びに満たされたとき、すばらしい愛の行為を見たとき、それが音楽であったり、美術であったり、何であろうと称賛の拍手をおくるでしょう。それならば、なおさら天地万物を創造された神、愛の神、麗しい方に心から賛美しようではありませんか。主の創られたこの地のすばらしい紅葉を主に感謝し、主に賛美しましょう。私たちは主がどれほどすばらしい方かを知るとたたえずにはいられません。あのヘンデルのハレルヤ・コーラスのように。
第三に、礼拝は神の価値を宣言し、断言することです。
英語で礼拝を意味する「Worship」は、何かに対して、あるいはだれかに対して、「最高の価値がある」ということを意味することばです。神は、イエス・キリストはわたしやあなたにとって最高の価値なのです。これ以上に価値あるものは、この世には存在しないのです。神の価値を宣言し、断言することが礼拝です。同じ詩篇135篇の5節に
「
まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。」
とあります。 人はみな自分なりの価値を持って生きています。何に価値を見出すかということは、その人の隠されている心の本質を示します。神は心を見られる方です。神以外のものに最高の価値を持ち、それに従属するとき、それは偶像礼拝となります。金銭に価値を見出す人、自分の才能に価値を見出す人、肩書きに価値を見出す人、仕事に価値を見出す人、様々です。しかし、クリスチャンとは、神にのみ価値を見る人のことです。何故ならすべてものがが、神から与えられ神に帰るからです。ヨブは言いました。
[新改訳] ヨブ記 1章20〜23節 1:20
このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
1:21
そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
1:22
ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。
このみことばは、わたしが始めて礼拝に出席した礼拝のメッセージの箇所でした。すべては、もともと神のものなのです。あなたは、そのことを認めていらっしゃいますか。本当の価値あるものは、神なのです。
イエス様はおっしゃられました。
[新改訳] マタイの福音書
13:44
天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
13:45
また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
13:46
すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
また使徒パウロも言っています。
[新改訳] ピリピ人への手紙
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。3:8
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
礼拝とは、キリストの価値を宣言し、告白することなのです。あなたの言葉で価値を宣言しましょう。
第四に、礼拝とは、神に仕えることです。
私たちは教会でよく奉仕ということばを使いますが、これは神と人とのために何か役に立つ行為をすることですね。礼拝のことを、アメリカの教会ではよく「サンデー・サービス」といいます。これは、日曜日に主に仕えることを意味しています。私たちは神に仕えるために救われました。神に仕える最高の型は礼拝です。礼拝はクリスチャンの最高の奉仕なのです。礼拝は、神に喜んでいただけるように神に仕えることなのです。
仕えるということは、私たちは「しもべ」であるということです。しもべは主人に仕えます。主人の言いつけを守り、その命令に従わなくてはなりません。
ですから、礼拝は、すべての面で神に従い、従順であることを約束し、決心する場のです。礼拝とは礼拝をささげる対象にすべてをまかせてしまう行為なのです。
第五に、礼拝は、神に愛と感謝をささげ、告白することです。
礼拝は単なる儀式ではありません。それは生きておられる愛なる神との人格的な交わりです。
旧約聖書の中で最も大切な律法は、神と隣人を愛することでした。皆さんはどうして神を礼拝するために教会にこられるのですか。神を愛しているからですか。わたしは、牧師だから当然のこととして神を礼拝するのではありません。私のためにイエスさまを天より遣わされ、私のために十字架ですべての罪の代価を支払ってくださった神の愛の故に、感謝をもって神を愛して礼拝するのです。もし、礼拝が愛のこころと感謝で捧げられていないならそれは礼拝とはなりません。
感謝祭が近づいています。感謝祭はもともと必要を満たし私たちを愛してくださった神に、感謝を持って始まったものです。ですから、キリストなき感謝祭、キリストなきクリスマスには何の意味もありません。キリストがおられないなら、それは、自分の満足の為のものです。
わたしは、1年前、ちょうどアメリカの感謝祭の週に、肝臓癌に侵されている母の見舞いに帰国していました。日本の母教会で礼拝の奉仕と宣教報告、兄弟姉妹との交わりをして、久しぶりの再会を喜んだ後、夕礼拝のある大阪の北浜にある教会の礼拝に出席しました。その礼拝で、わたしは大変感動を覚えました。感謝祭礼拝が持たれていたのです。どれだけの日本の教会がそのような礼拝を持っていることでしょうか。礼拝が行われる講壇の前には大きなテーブルが並べられ、その上に秋に収穫される沢山の作物(食べ物)が置かれていました。神社やお寺では収穫を奉納するのに、日本の教会では生きる真の神に感謝が捧げられていないのです。礼拝とは神にささげることではありませんか。もともと神のものを、それを私たちのために下さったお方に感謝をこめて捧げることではありませんか。
わたしは、その礼拝で大変祝福を受けました。また、私の邦人伝道のために、牧師は按手して祈ってくださいました。わたしも、神に感謝の心を持って献金をお捧げしました。その礼拝は、その日の最後の礼拝でしたので、出席されている方々にその奉納された野菜が分配されました。わたしも、大きな白菜をいただいて実家に帰りました。
その時、神はその日本訪問を通して何十倍もの祝福を下さいました。10日間の訪問でしたが、方々で捧げものがあり、40万もの献金があったのです。初めて訪問した大和カルバリーチャペルの礼拝では、その場で大川牧師が礼拝後、講壇に招いて紹介してくださり、按主の祈祷と共に献金を募ってくださいました。その礼拝はクリスマス礼拝の録画でもあったのですが、テレビやインターネットを通して世界中にわたしの短い証しが流れたのでした。献金は13万円あまりあったのですが、その中に10円玉が何枚かありました。子どもが捧げてくれたものです。おそらく、両親が捧げようとしたときに、わたしもと捧げたのでしょう。次世代に信仰が継承されていることに希望を見ました。
私は、この旅に心が燃やされてテネシーに帰って来ました。その中で、アメリカの中東部の地域に伝道所ではなく、神の教会を神が必要とされ、この地に建てられる幻が与えられたのです。ラレーのことも真剣に考え、祈りだしたのもこの頃です。神は、すでに、その指をこの群れの為に動かされています。そのことを信じますか。信じる方は大きな声でアーメンと言いましょう。
礼拝とは神にささげることです。ささげものは、あなた自身であろうと、献金であろうと大きな祝福を持ってあなた自身に帰ってくるのです。何という恵みでしょう。
ピリピ人への手紙4章19節 に「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」とあるように、心から感謝と賛美を持って礼拝する民を、神は天の窓を大きく開いて、天の富で満たしてくれるでしょう。今週も感謝しつつ、主に期待して歩みましょう。お祈りします。
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