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[新改訳] ペテロの手紙第一 4章7〜11節 4:7
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。 「母の日」は1908年に制定されました。翌年1909年のことでした。トッド夫人という女性が、「母の日」があって、「父の日」がないのはおかしい」と全米の牧師協会に「父の日」を設けるように申請しました。しかし、なかなかその申請が通らずにいました。しかし、その7年後(1916年)に「父の日」が認知され、だいぶ発って1972年からアメリカでは国民の祝日になりました。 このことにはある背景がありました。 皆さんの中に、私には「父がいない」という人は誰もいないと思います。ある人は、生まれて気づいたときに、すでにお父さんがいなかったかも知れません。また、お父さんを亡くした人もいるかも知れません。しかし、皆さんが、この世に生まれてきたならば、お父さんはいるはずです。 イエス様の弟子たちも、父なる神に祈っているイエス様に対して、「父なる神とはだれのことですか?」と思ったようです。イエス様以外にだれも神を父と呼べる人はいなかったし、もし、人がそのようなことをいったなら、神を冒涜するといわれた用名時代です。ですから、イエス様が父なる神様と親しく祈っている姿を見て、「父なる神とはどのようなお方ですか」とイエス様に尋ねたのかもしれません。 弟子の一人ピリポがイエス様に聞きました。「私たちにも父を見せて下さい」と 「わたしを見た者は父を見たのです」 イエス様を見ると、完全な父を見ることが出来ます。「生まれて気づいたとき、父親がいなかった」と言われるかも知れませんが、イエス様を見たら、完全なる父親を知ることができるのです。また、現在、父親の立場の方はイエス様を見続けるならば、完全な父親に近づくことができるはずです。家庭でお父さんがイエス様を信じ、イエス様を見ることはとても大切です。イエス様を見続けるならば、神が現した父親像が人の中に形作られます。家族の回復のためにも、イエス様を信じることは何よりも大切です。 また、「あなたの父と母を敬いなさい」とはモーセの十戒の中で、神と人との戒めから人と人との戒めをつなぐ五戒におかれていることはとても意味のあることです。まことの天の父である神様を信じ尊敬できない人には、肉の父を一生敬い大切にしていくことは容易い事ではありません。わざわざ戒めにあるのは、罪を持った罪びとである私たちは、真心から両親を尊敬し、老いても大切に感謝を持って仕えていくことより、ないがしろにしていく人々が多いことが最近のアンケートで如実に現れています。日本では、年老いた親を虐待する人の一位は息子、二位は嫁であるということです。先進国の中でその数字も最も多いのが日本です。聖書はそのような者は幸せに長い一生をおくることは出来ないと警告します。神のことばに従順するとき、あなたは神の祝福を約束通り受け取ります。両親を敬うこと、感謝することは神の命令です。だから父に感謝することが大切なのです。ですから、今日は宣教の初めに、お父さん方の祝福を祈りたいと思います。 この宣教師は父ではありませんが、青年は神に従うように、霊的な師である宣教師のことばに従いました。 さて、それでは今日のテキストについて共にみことばから学んでいきましょう。 第一に、賜物はすべてのクリスチャンに与えられているということです。 ノース・アメリカン・バプテスト神学校のリチャード・フーツという人は、賜物を発見するための128の質問を作りました。フーツは、賜物を「管理、運営の賜物」「リーダシップ」「慈善」「ホスピタリティ」「補助」など、16種類に分けています。教会の片付けをしたり、掃除をしたりすること、また、人を歓迎すること、もてなすことも、その「賜物」のリストの中に入っています。今朝の聖書では、賜物を大きく二種類、「語ること」と「奉仕すること」に分けています。 私たちは、賜物というと、奇跡やいやしを行ったりするような何か特別な力のことだと考えられがちですが、決してそうではありません。聖書は「みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。」(第一コリント 12章29〜30節)と言って、こうした賜物は、初代教会でもまれなものであったと言っています。聖書には、ごく普通に見られる「分け与えること」や「慈善を行うこと」なども賜物であると書かれています。 ローマ人への手紙12章を開けてみましょう。 12:1
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 ここでは神様の一方的な恵みによって新しいいのちをいただいたキリスト者がどのように生活すべきか語られています。これはキリスト者の標準をさすみことばです。 第二に、私たちには賜物を管理する責任があるということです。 10節に「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」とあるように、私たちは賜物の管理人なのです。「管理する」という言葉は、賜物が、私たちに与えられたものではあっても、本来は神のものであるということを意味しています。賜物が自分のものだけなら、それをどうしょうと勝手なのかもしれませんが、それが神のものであるなら、私たちは、それを私たちに任せてくださった神に対して忠実に管理する責任があるのです。 では、賜物を管理するとは、どうすることでしょうか。まずは、自分に与えられた賜物が何であるかを知ることです。では、どうやって賜物を発見するのでしょうか。 一番良い方法は、その賜物を必要とする奉仕をしてみることです。その奉仕が、はじめは慣れないためにうまくいかず、大変だと思うかもしれませんが、続けているうちに、奉仕の喜びを感じ、それが実を結ぶようになれば、あなたに、その賜物があるということが分かります。 他の方法は、誰かほかの人、とりわけ、神のみこころを良く知り、あなたを良く知っている人から教えてもらうことです。私たちは、多くの場合、自分で自分の賜物に気付かないでいることが多く、賜物を発見できないでいることがあります。しかし、自分では気付かなくても、ほかの人には分かる場合が多いものです。また、自分では、こういう賜物があると思っていても、ほかの人の目から見てそうでない場合もあります。信仰の先輩からのアドバイスを受けるのは、賜物を発見する良い助けになります。 賜物を管理するというのは、また、与えられた賜物を成長させるということです。 このことは、キリスト者が最初に立たされる、神の裁きの御座において明らかになります。あなたがどのように神からいただいた賜物を管理し活用したかを問われる場です。 初代のエルサレム教会でやもめの食糧の配給のため選ばれた七人は、立派にその仕事を果たしましたが、それだけで終わらず、その賜物を発展させました。七人の中のひとり、ステパノは最初の殉教者になった人ですが、クリスチャンの信仰に敵対するユダヤ人の前で堂々とした説教をしています。また、ピリポは、サマリヤに行って伝道し、その後は、エチオピアの女王の高官をキリストに導く伝道者となりました。これらの人々は、最初に与えられた賜物に忠実であり、それを十分に用いたため、次の新しい賜物を与えられ、別の奉仕も出来るようになったのです。 第一コリント12章31節に「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」と言われているのは、このようなことだと思います。しかし、「すぐれた賜物を求める」という場合、別の賜物を求めるということだけでなく、与えられている賜物をさらに豊かなものに成長させていくということも大切です。ここで「熱心に求める」と訳されていることばは、文字どおりには「欲しがる」「切望する」「貪欲になる」と訳すことができます。賜物を神に豊かに用いていただきたいという熱意、貪欲なまでの求めを持ちたいものです。賜物の管理人になによりも必要なものは、そのような願いなのです。 第三は、賜物が与えられている、その目的があるということです。 賜物について心に留めておくべきことは、「賜物は神と人とに仕えるためにある」ということです。 10節に「その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」と教えられ、11節には、「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。」と言われています。賜物は、決して、私たちがそれによって自分を誇るためのものではありません。 特別な能力を持っている人、人よりも優れた力を持っている人は、人々の注目を集めます。それは悪いことではありません。人に見られるのが嫌だから、賜物を使わないというのは聖書的ではありません。しかし、その賜物によって人々を自分に引きつけたり、自分が誉められようとするなら、それは、神のみこころにかなったことではありません。真実なクリスチャンなら、意図的に自分を誇ろうとする人はいないと思います。しかし、動機は良くても、自分ではそのつもりでなくても、人々に仕えるため与えられた賜物で人々を支配してしまう、神をあがめるための賜物で自分を誇ってしまうこともあるのです。ですから、神に用いられれば用いられるほど、神の前にへりくだって奉仕を続けていかなければなりません。 新約聖書が書かれたギリシャ語では、「恵み」と「賜物」は同じ語源から出たことばです。ギリシャ語で「恵み」というのは「カリス」と言い、これは女性名詞で、抽象的なものを表わしています。「賜物」は「カリスマ」と言い、これは中性名詞で、形ある具体的なものを表わしています。つまり、神の恵み(カリス)が具体的に形をあらわしたものが賜物(カリスマ)なのです。「カリスマ」は英語や日本語になっていて、大衆を信服させるような権威のことを指します。最近は「カリスマ美容師」とかいうようによく使われていますが、一般に「カリスマ的な人」というと、新興宗教の教祖のように特別な能力があるのですが、なんとなく、警戒したほうがよい人を指すのに使われ、あまり良い意味では使われていないようです。しかし本来、「カリスマ」という言葉は、「恵みの賜物」という意味で、とても美しいことばなのです。「カリスマ」という言葉があまり良い意味で使われなくなったのは、神からの賜物を誤って用いた人が多くいためでしょう。日本ではあまりにもこのように人を騙す新興宗教がはびこっているので宗教に対して心を閉ざしてしまうようです。しかし、賜物が正しく用いられなかったからといって、賜物を警戒し、賜物を求めることからしり込みすべきではありません。私たちが御霊の実である、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を養っているなら、聖霊の賜物も正しく用いることができます。賜物の目的を忘れないようにしているなら、それを正しく用いることができます。賜物を大胆に求め、それを隠さず、眠らせず、もっと大きく用いようではありませんか。皆さんのすばらしい賜物が、大いに用いられるよう、お祈りいたします。 |