神の恵みの良い管理者として

[新改訳]  ペテロの手紙第一  4章7〜11節       

4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
4:9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。


 
最初にとてもうれしい報告があります。それは先週のユースキャンプでミーシャさんが信仰告白をしたことです。皆さんで主に感謝し祝福いたしましょう。

 今日は「父の日」です。先月は野外礼拝の日を母の日に持って、多くの方々が家族で出席してくださいました。ところで、皆さんは、なぜ、「父の日」があるのかを知っていますか? それは、「母の日があったから」です。母の日があって、父の日がなくては具合が悪いのですよね。

「母の日」は1908年に制定されました。翌年1909年のことでした。トッド夫人という女性が、「母の日」があって、「父の日」がないのはおかしい」と全米の牧師協会に「父の日」を設けるように申請しました。しかし、なかなかその申請が通らずにいました。しかし、その7年後(1916年)に「父の日」が認知され、だいぶ発って1972年からアメリカでは国民の祝日になりました。

このことにはある背景がありました。
 「父の日」を設けてくれるように最初に働きかけたトッド夫人の幼少時代は南北戦争の最中でした。彼女のお父さんは南北戦争に参加し、何年も家を空けていました。それでお母さんがひとりで、六人の子どもを育てました。
 やがて戦争が終わって、お父さんが帰ってきました。しかしお母さんは子育てで疲れ病気を患い、しばらくして死んでしまったのです。残されたお父さんは、再婚もせずに一生懸命六人の子どもを育て上げました。その六人の末っ子がトッドさんでした。それで、お父さんは私たちを育ててくれる為に一生懸命名頑張ったのだから、お父さんに感謝する日を作っても良いのでは、ということで「父の日」を申請したのだそうです。

 皆さんの中に、私には「父がいない」という人は誰もいないと思います。ある人は、生まれて気づいたときに、すでにお父さんがいなかったかも知れません。また、お父さんを亡くした人もいるかも知れません。しかし、皆さんが、この世に生まれてきたならば、お父さんはいるはずです。
 最近の日本では、「父の日」に感謝しましょうといっても、なかなか難しいようです。何故なら父親に対していだいている、父親像が悪いからです。父親はいつのですが、父親不在で育った世代だからです。家庭の中で、母親が父親の存在を伴侶として尊敬してこなかったことも一つの要因です。

 聖書は、神様を「父なる神」と呼びます。イエス様は、神が人となってこの地上に来られた方でした。しかし、神がこの地上に来られた為に、全宇宙の神は、その間不在だったということはありませんでした。イエス様は、神として地上に来られましたが、父なる神様はおられました。ですから、人となられたイエス様は、地上では父なる神に祈る必要がありました。イエス様がこの地上から天に帰られ、続いて聖霊様が来られました。それは、神の霊そのもので、神ご自身です。この三つの位各は一つです。父なる神様に対し、イエス様によって祈ることが基本的な私たちの祈りです。


 しかし、父なる神に祈ると言っても、「私の父はあまり良い人ではなかった」「父がいたために、私の人生はひどくなった」と言う人もいるかも知れません。例えば、「父がアル中で暴れて苦しめられ、虐待を受けた」という人もいるかも知れません。その為に父なる神様に祈ることに対して、抵抗があるのです。

 イエス様の弟子たちも、父なる神に祈っているイエス様に対して、「父なる神とはだれのことですか?」と思ったようです。イエス様以外にだれも神を父と呼べる人はいなかったし、もし、人がそのようなことをいったなら、神を冒涜するといわれた用名時代です。ですから、イエス様が父なる神様と親しく祈っている姿を見て、「父なる神とはどのようなお方ですか」とイエス様に尋ねたのかもしれません。 弟子の一人ピリポがイエス様に聞きました。「私たちにも父を見せて下さい」と 
 ヨハネ14.章9節に、『イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。』

「わたしを見た者は父を見たのです」

イエス様を見ると、完全な父を見ることが出来ます。「生まれて気づいたとき、父親がいなかった」と言われるかも知れませんが、イエス様を見たら、完全なる父親を知ることができるのです。また、現在、父親の立場の方はイエス様を見続けるならば、完全な父親に近づくことができるはずです。家庭でお父さんがイエス様を信じ、イエス様を見ることはとても大切です。イエス様を見続けるならば、神が現した父親像が人の中に形作られます。家族の回復のためにも、イエス様を信じることは何よりも大切です。

また、「あなたの父と母を敬いなさい」とはモーセの十戒の中で、神と人との戒めから人と人との戒めをつなぐ五戒におかれていることはとても意味のあることです。まことの天の父である神様を信じ尊敬できない人には、肉の父を一生敬い大切にしていくことは容易い事ではありません。わざわざ戒めにあるのは、罪を持った罪びとである私たちは、真心から両親を尊敬し、老いても大切に感謝を持って仕えていくことより、ないがしろにしていく人々が多いことが最近のアンケートで如実に現れています。日本では、年老いた親を虐待する人の一位は息子、二位は嫁であるということです。先進国の中でその数字も最も多いのが日本です。聖書はそのような者は幸せに長い一生をおくることは出来ないと警告します。神のことばに従順するとき、あなたは神の祝福を約束通り受け取ります。両親を敬うこと、感謝することは神の命令です。だから父に感謝することが大切なのです。ですから、今日は宣教の初めに、お父さん方の祝福を祈りたいと思います。

 箴言の18章20,21節に「わたしは正義の道、公正の通り道の真中を歩み、わたしを愛する者には財産を受け継がせ彼らの財宝を満たす。」ということばがあります。        

 貧しいけれども誠実で実直な青年がいました。彼は教会に通っていましたがある日、その教会にいるアメリカ人宣教師が薪を一車買い込んできました。そしてこの青年に薪を積み上げるように言い付けました。青年は教会の隅に薪をきちんと積み上げ、後かたづけもきれいにしました。
 しかし、宣教師が来て「ここでは雨に濡れる恐れがあるから向こうに移しなさい」と言いました。青年は不平を言うこともできたのですが、一言の文句も言わずに宣教師が言ったとおりに薪を移し、積み替えました。その年の雪がたくさん降ったクリスマスの日に宣教師は青年に贈り物をしました。宣教師はこの青年のために留学の道を開いてくださったのです。宣教師は以前から青年の正直さと誠実さに目を留めていたのです。

この宣教師は父ではありませんが、青年は神に従うように、霊的な師である宣教師のことばに従いました。
 ソロモンは私たちに「正直に公正に生きる知恵深い者は財産を受け継ぎ、財宝で満たされる」と教えています。知恵ある人は知恵の導きを受けて正直な道、公正な道へと進みます。このように義を行い、公正な道へ進むことは神のみこころを行うことであり、神はこのような人に祝福をくださいます。そして、父を敬うことは、同時に神を敬うことであり、あなた自身の祝福を呼び込むことになるのです。

 さて、それでは今日のテキストについて共にみことばから学んでいきましょう。
 私たちは「主のわざに励みなさい」とあるように、夏の間のような兄姉の留守の間に皆さんには沢山の主への奉仕の場があります。心を新たにして、それぞれ与えられた奉仕に励みましょう。そのために、今朝は、奉仕の原動力である「賜物」について、みことばから確認していきたいと思います。

 賜物について、今日は三つのことをお話します。

第一に、賜物はすべてのクリスチャンに与えられているということです。

 ノース・アメリカン・バプテスト神学校のリチャード・フーツという人は、賜物を発見するための128の質問を作りました。フーツは、賜物を「管理、運営の賜物」「リーダシップ」「慈善」「ホスピタリティ」「補助」など、16種類に分けています。教会の片付けをしたり、掃除をしたりすること、また、人を歓迎すること、もてなすことも、その「賜物」のリストの中に入っています。今朝の聖書では、賜物を大きく二種類、「語ること」と「奉仕すること」に分けています。

 私たちは、賜物というと、奇跡やいやしを行ったりするような何か特別な力のことだと考えられがちですが、決してそうではありません。聖書は「みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。」(第一コリント 12章29〜30節)と言って、こうした賜物は、初代教会でもまれなものであったと言っています。聖書には、ごく普通に見られる「分け与えること」「慈善を行うこと」なども賜物であると書かれています。

ローマ人への手紙12章を開けてみましょう。
 [新改訳]  ローマ人への手紙         

12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。
12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。
12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。
12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
12:16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。
12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

 ここでは神様の一方的な恵みによって新しいいのちをいただいたキリスト者がどのように生活すべきか語られています。これはキリスト者の標準をさすみことばです。
 
 初代のエルサレム教会で、使徒たちがみことばのご用に専念し、やもめへの食糧の配給などは、選ばれた七人の人々があたりましたが、「語ること」「奉仕すること」というのは、そういう区分を指すと思われます。ここから、教会での『執事職』が始まったのです。「奉仕」は、教会の中のこまごまとしたことを行う補助的な働きですが、それは「みことばを語ること」と同じく大切な賜物です。11節では、賜物が「神が豊かに備えてくださる力」と定義されていますが、それは、みことばを語る人だけでなく、それを助ける奉仕をする人にも必要なのです。賜物は、私たちの思う以上に多くあり、私たちには誰にでも、必ず何かの賜物が与えられています。聖書は、「それぞれが賜物を受けている」(10節)と、はっきりと書いています。もし私たちが「私には賜物は何もありません。」と言うなら、それは、聖書のことばを否定することになり、賜物の与え主である神を辱めることにならないでしょうか。

第二に、私たちには賜物を管理する責任があるということです。

 10節に「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」とあるように、私たちは賜物の管理人なのです。「管理する」という言葉は、賜物が、私たちに与えられたものではあっても、本来は神のものであるということを意味しています。賜物が自分のものだけなら、それをどうしょうと勝手なのかもしれませんが、それが神のものであるなら、私たちは、それを私たちに任せてくださった神に対して忠実に管理する責任があるのです。

 では、賜物を管理するとは、どうすることでしょうか。まずは、自分に与えられた賜物が何であるかを知ることです。では、どうやって賜物を発見するのでしょうか。

一番良い方法は、その賜物を必要とする奉仕をしてみることです。その奉仕が、はじめは慣れないためにうまくいかず、大変だと思うかもしれませんが、続けているうちに、奉仕の喜びを感じ、それが実を結ぶようになれば、あなたに、その賜物があるということが分かります。
 Raleighの教会では教会学校で奉仕されている兄姉が、このことで恵みを受けておられます。松本執事は、今そのような中でGoldsboroとJacksonvilleでも用いられています。神に感謝いたします。

他の方法は、誰かほかの人、とりわけ、神のみこころを良く知り、あなたを良く知っている人から教えてもらうことです。私たちは、多くの場合、自分で自分の賜物に気付かないでいることが多く、賜物を発見できないでいることがあります。しかし、自分では気付かなくても、ほかの人には分かる場合が多いものです。また、自分では、こういう賜物があると思っていても、ほかの人の目から見てそうでない場合もあります。信仰の先輩からのアドバイスを受けるのは、賜物を発見する良い助けになります。

 賜物を管理するというのは、また、与えられた賜物を成長させるということです。

 このことは、キリスト者が最初に立たされる、神の裁きの御座において明らかになります。あなたがどのように神からいただいた賜物を管理し活用したかを問われる場です。
 イエスが語られたタラントの譬えでは、与えられたタラントを増やしたしもべは誉められていますが、与えられたものを隠してしまって、増やそうとしなかったしもべは罰されています。私たちは、それぞれ、神から賜物を預かっています。預かっている賜物の種類は違います。ですから、みんなが同じことをしなければならないわけではありません。賜物に、もし「多い、少ない」という分量があるとして、それがどんなに大きな賜物であれ、小さいと見える賜物であれ、大切なことは、与えられたものを発展させ、成長させるということです。

 初代のエルサレム教会でやもめの食糧の配給のため選ばれた七人は、立派にその仕事を果たしましたが、それだけで終わらず、その賜物を発展させました。七人の中のひとり、ステパノは最初の殉教者になった人ですが、クリスチャンの信仰に敵対するユダヤ人の前で堂々とした説教をしています。また、ピリポは、サマリヤに行って伝道し、その後は、エチオピアの女王の高官をキリストに導く伝道者となりました。これらの人々は、最初に与えられた賜物に忠実であり、それを十分に用いたため、次の新しい賜物を与えられ、別の奉仕も出来るようになったのです。

 第一コリント12章31節に「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」と言われているのは、このようなことだと思います。しかし、「すぐれた賜物を求める」という場合、別の賜物を求めるということだけでなく、与えられている賜物をさらに豊かなものに成長させていくということも大切です。ここで「熱心に求める」と訳されていることばは、文字どおりには「欲しがる」「切望する」「貪欲になる」と訳すことができます。賜物を神に豊かに用いていただきたいという熱意、貪欲なまでの求めを持ちたいものです。賜物の管理人になによりも必要なものは、そのような願いなのです。

 第三は、賜物が与えられている、その目的があるということです。

 賜物について心に留めておくべきことは、「賜物は神と人とに仕えるためにある」ということです。

10節に「その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」と教えられ、11節には、「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。」と言われています。賜物は、決して、私たちがそれによって自分を誇るためのものではありません。

 特別な能力を持っている人、人よりも優れた力を持っている人は、人々の注目を集めます。それは悪いことではありません。人に見られるのが嫌だから、賜物を使わないというのは聖書的ではありません。しかし、その賜物によって人々を自分に引きつけたり、自分が誉められようとするなら、それは、神のみこころにかなったことではありません。真実なクリスチャンなら、意図的に自分を誇ろうとする人はいないと思います。しかし、動機は良くても、自分ではそのつもりでなくても、人々に仕えるため与えられた賜物で人々を支配してしまう、神をあがめるための賜物で自分を誇ってしまうこともあるのです。ですから、神に用いられれば用いられるほど、神の前にへりくだって奉仕を続けていかなければなりません。

新約聖書が書かれたギリシャ語では、「恵み」と「賜物」は同じ語源から出たことばです。ギリシャ語で「恵み」というのは「カリス」と言い、これは女性名詞で、抽象的なものを表わしています。「賜物」は「カリスマ」と言い、これは中性名詞で、形ある具体的なものを表わしています。つまり、神の恵み(カリス)が具体的に形をあらわしたものが賜物(カリスマ)なのです。「カリスマ」は英語や日本語になっていて、大衆を信服させるような権威のことを指します。最近は「カリスマ美容師」とかいうようによく使われていますが、一般に「カリスマ的な人」というと、新興宗教の教祖のように特別な能力があるのですが、なんとなく、警戒したほうがよい人を指すのに使われ、あまり良い意味では使われていないようです。しかし本来、「カリスマ」という言葉は、「恵みの賜物」という意味で、とても美しいことばなのです。「カリスマ」という言葉があまり良い意味で使われなくなったのは、神からの賜物を誤って用いた人が多くいためでしょう。日本ではあまりにもこのように人を騙す新興宗教がはびこっているので宗教に対して心を閉ざしてしまうようです。しかし、賜物が正しく用いられなかったからといって、賜物を警戒し、賜物を求めることからしり込みすべきではありません。私たちが御霊の実である、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を養っているなら、聖霊の賜物も正しく用いることができます。賜物の目的を忘れないようにしているなら、それを正しく用いることができます。賜物を大胆に求め、それを隠さず、眠らせず、もっと大きく用いようではありませんか。皆さんのすばらしい賜物が、大いに用いられるよう、お祈りいたします。