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どうして祈るのですか?
[新改訳] ヤコブの手紙 5章7〜20節 5:7
こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
5:8
あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
5:9
兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。
5:10
苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
5:11
見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。
5:12
私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。
5:13
あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
5:14
あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
5:15
信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
5:16
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
5:17
エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。
5:18
そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。
5:19
私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、
5:20
罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。
今日のテーマは、クリスチャンはどうして祈るのかということです。この言葉の表現は二通りの質問を意味しています。「一つ目は何故祈るのですか?」ということです。そして、二つ目は「どのように祈ればよいのですか?」という意味においてです。今日はこの二つのことを覚えながら、キリストにある祈りと、神の御心を探ってみたいと思います。今日の聖書箇所はヤコブの手紙5章7節〜20節です。
礼拝の中では時間の都合によって、この手紙の背景を説明しませんでしたが、少しこの手紙の強調点をお話ししたいと思います。
ヤコブの手紙は、パウロがローマ人への手紙やガラテヤの人への手紙において「信仰によって義とされる」ことを強調しているのに対して、「行いによって義となされる」と強調したと誤解され、パウロと対立していると思われてきました。実は信仰と行いについてのヤコブの説明では、信仰は行ないの心の奥底を指しているのです。心の中に信仰が根ざしていれば、必ず外にも現れるものです。これは神さまに対する態度です。いつも大切なこととして言っていますように、福音において、十字架と復活がコインの表と裏の関係であるように、信仰と信仰に伴う行い(信仰からくる行い)もコインの表と裏の関係にあります。
パウロもガラテヤ人への手紙5章6節で、「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」と言っています。二人の見方が支え合っています。そして、ヤコブの手紙2章20節に「ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」とあるように、この意味をもっと簡単に言いますと、信仰は良い行いの原動力で、信仰による良い行いは本当のキリスト者の証拠だと言うことです。
パウロとヤコブは二人ともアブラハムの事を例えにしていますが、パウロはアブラハムが信仰によって義とされたと述べ、ヤコブはアブラハムの行いが義とされたと証拠を挙げています。だから、24節に「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」[口語訳]と書かれています。ヤコブは救いの中に信仰は重要なことを否定していませんが、「信仰だけによるのではありません」と言っているのです。説明すると、信仰が唯一の存在ではない、本当の信仰は単なる真理の理解だけではない、必ず行いを伴うのだ、ということなのです。これは本当の信仰から自然に生じる行いです。ですから「みことばを聞く」と「みことばを行う」とは同じ大事なことだと解ります。片方だけ強調すれば、無意味になります。それだから、1章22〜24節でヤコブは、「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。」と書いているのです。
ヤコブは教会の信徒へ教える時、信仰の父と言われるアブラハムの行った信仰の実例を引用しました。アブラハムの信仰と行ないの二つから「知行合体」と言う実践を見ることができます。だから、私たちは「知」的クリスチャンだけではなくて、同時に実際に行動するクリスチャンにならなければなりません。どちらのほうが大切かと問われれば、理論的信仰を大事にし、実践的な行いも大切にするのが、本当のクリスチャンなのです。みことばを聞くだけではなく、本当にみことばに従って行なうことが大切なのです。
さて、このことを覚えながら「祈り」に対して今日のみことばから見てまいりましょう。
マタイの福音書の中に「神は祈る前から私たちに必要なことをご存知である」というみことばがあります。それなら、どうして祈る必要があるのでしょうか?
また、「御心を祈りなさい」といわれますが、神様の御心がわかっていれば祈ることもできますが、わからない時はどう祈るのでしょうか?
そもそも「祈りとは何か」ということを考えてみると、祈りは何もキリスト教に特有な事柄ではないということです。
「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(マタイ6章7,8節)
というイエス様の言葉の中にも、異邦人たちの祈りについて、イエス様は言及されています。まことの神様を信じる人だけが祈るのではなく、ほんとうの神様を知らない人も祈ります。つまり、祈りというのは、人間にとって自然なことなのだと思います。
人間の力の及ばないことに直面したとき、人間はそこで簡単には自分の願いや希望を捨てたりはしません。自分の無力さに直面し、自分の力を超えた存在にすがろうとする時、「祈る」ということが起こるのだと思います。そういう意味で、祈るということは、人間が人間でいる限り、特定の宗教とは関係なく、自然に起こることなのです。もう少し、キリスト教的な言い方をすれば、人間をそういう感性を持ったものとして神がお造りになったので、人間は祈るのだということができます。
祈りというのは、自分の欲望を超自然的な方法で実現するための手段なのではなく、むしろ、必要なものを何でもご存知でいらっしゃる神に自分の願いを近づける訓練の場だといったらよいかもしれません。神のみこころを求めるというのは、それがなんだかわかっていて求めるというよりも、それを分かろうとして、尋ね求めていくものなのではないでしょうか。
この世の中に起こることというのは、すべて人間のコントロールのもとにあるというわけではありません。人間の力の及ばないことというのはいくらでもあります。健康でいたいと願って、どんなに気をつけて努力しても、病に犯されるということがありますし、事業に成功したいと、どんなに努力しても、必ず成功するとは限らないという理不尽なことがあります。
例えば、「健康である」ということは誰が考えても、私たちにとって必要なことです。しかし、時として、その願いは聞かれないということが現実にあります。使徒パウロは自分の身に癒やしてほしいとげがあったので、何度も取り去って欲しいと願いました。しかし、その願いは聞き入れられませんでした。そのときパウロが祈りを通して与えられた答えは、弱さの中で働いて下さる神の恵みの充分さでした。神様のみこころは、恵みの豊かさを弱い人間を通して働かせるという点にありました。パウロはそのことを、祈ることを通して学んだのです。もし、パウロが、このことについて全く祈らなかったとしたら、病気の自分を惨めと思うか、諦めるしかなかったでしょう。あるいは、それでもなお、自分の願いを強引に祈っていたとしたら、神の恵みに触れることはできなかったでしょう。祈ったからこそ、自分に与えられている全ての事柄を自分にとって最高のものとして受け止めることができたのです。自分の願いの実現のためではなく、自分の心の中を神のみこころに近づけていくために、祈りは必要なのです。
こんな詩があります。ある無名の兵士の詩だそうです。
大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、 謙遜を学ぶように弱い者とされた。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、 よりよいことができるようにと病気を戴いた。
幸せになろうとして富を求めたのに、 賢明であるようにと貧しさを授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、 神を求め続けるようにと弱さを授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、 あらゆることを喜べるようにと命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、 願いはすべて聞き届けられた。
神の意に添わぬものであるにもかかわらず、 こころの中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。
この詩は使途パウロに通じますね。
ここで、先の質問の箇所である、マタイによる福音書の6章7,8節の後、イエス様はあの有名な「主の祈り」を弟子たちに教えられるわけですが、その中に「みこころが行われますように」という言葉が出て来ます。この聖書の箇所では、まず自分の為に祈ることが求められています。苦難や試練の折り、痛みや悲しみの際、素直に自分の心の内を神に注ぎ出すことが勧められているのは、自分を見失い、歩むべき道が分からなくなっている時に、祈ることによって神を見出し、自分のなすべき事が示されていくからです。喜びの時に賛美するように語られているのも、同じことです。私たちの生活の全てを神との関わりで眺め、神と共に生きていく必要があるからなのです。
自分自身が神に祈るのみならず、他の人々に自分の為に祈ってもらうようにも書かれています。 これは神が取りなしの祈りを聞き上げ、病人を救い、その人を起き上がらせてくださるからです。そのことに加えて、罪をも赦して下さいます。 そして私たちは自分の為に祈り、他の人に祈ってもらうことから、「互いに罪を告白し合い、互いのために祈る」ことへと導かれてゆきます。この根拠は、「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」とあるように、正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらすからです。 しかし、私たちは自分を振り返っても、また相手のことを見ても、決して正しい人ではないことを知っています。 しかし、その私たちを神の御前に正しいものとする為に、主イエス・キリストはこの世に来てくださり、十字架の上で贖いを成し遂げて下さったのです。 この正しい人キリストは、父なる神の右に座して、私たちの為に今も「とりなしの祈り」を捧げて下さっています。ですから、私たちの祈りが、神に聞き届けられるのです。私たちが、自分の為に、また互いの為に祈る時、その傍らに主がいて下さり、私たちの為に祈って下さっているのです。
それでは、祈りの必要性について、このことをもう少し深く掘り下げて、お話ししましょう。
それは、「神は人間の祈りをとおして働かれる」ということです。
言い方を変えれば、神が人を創造された時、人を神のかたちに似せたものとして創造されました。そして、地上の支配を神の権威の下にあって、アダムに任せられました。祈りは「神との交わり」であり神との信頼関係の上に、神の一方的な恵みと愛によって私たちに与えられたものです。神は神を信ずる者の祈りを通して働かれるように決定されたのです。それはあまりにも完全で究極的だったので、アダムがその犯した罪の故に手放してしまったもの「神との愛の交わり(祈りを通して)」をもう一度手に入れるために、神が人間となるという代償を払わなくてはなりませんでした。神のひとり子イエスの受肉です。この事実が「人間を通して」働くという神ご自身の決定を重々しく証拠づけています。
人間は、神を地上の権威と働きとに結びつけるべき永遠の使命を持っていたのです。そのような者としてはじめのアダムを創造されたのです。しかし、罪によって委ねられた地上の支配と権威を失ったので、人間に委ねられた神の国と神ご自身との関係を回復するため、イエス様は十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださったのです。ここに私たちが「祈る」必要性があるのです。
神は創造の時から、人間と無関係ではなく、人間をとおして働くことを決められました。これまでもそうでしたし、これからもそうです。神ご自身が人間にならなくてはならないという犠牲を払ってまでもです。なんと全能の支配者でありながら、神が自らを制限したと聖書にはっきり書いてあります。この世のことに関しては人間をとおして働くと、ご自分を制限されたのです。今、世界があらゆる問題が起こっている原因はここにあるのです。神がそうしようとされているからではなく、ご自分の意思を、人を通して実現しようとされているからです。ですから、私たちには大きな使命と責任があるのです。肉のままでは滅びるのです。ですから神の霊をいただいたキリスト者が、人々の救いの為に、罪の赦しの為にとりなさなければならないのです。何故なら「人間をとおして働くという方法を神は選ばれたから」です。神は私たちの祈りを必要とされているのです。
ジャック・ヘイフォード牧師はその著書「不可能を可能にする祈り」の中でこのように言っています。
「祈りとは、贖われた神の子が、この世を救う目的を実現するために、手に手を取って共に働く大切なパートナーシップのことです」と。
なんという、すばらしい特権でしょう。 皆さんは、一国の指導者から、直接、「一緒に、この国の平和と繁栄の為に働いてくださいませんか」といわれれば、「私でも良いのですか。喜んで手伝わせてください」というのではないでしょうか。まして、天地を創造された全能の神が、あなたとパートナー-シップを持って、神の国の到来の為に働かれるというのです。あなたは祈らずにおられるでしょうか。その祈りが人々を癒し、罪を赦し、迷いの道から連れ戻し、神の国の到来を近づけるのです。あなたは神の同労者として召されたのです。感謝を持ってこれを受けとめ、真剣に祈るものと変えられるようお祈りいたします。
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