|
「小さな信仰が神に委ねられる時」・・・イエスと弟子たち マタイの福音書(14章13〜21節)、マルコの福音書(6章30〜44節)、ルカの福音書(9章10〜17節)、ヨハネの福音書(6章1〜14節) 今日の聖書箇所はキリストの奇蹟の中でも、最もよく知られたもので、4つの福音書全部に記されています。5つのパンと2匹の魚で5000人を十分食べさせ、しかも余ったものを集めると12カゴもあったというのです。この5000人の給食の記事は、初代教会にとって忘れがたい重要な出来事でした。ルカ福音書では12弟子が伝道から帰ってきたすぐ後に、また主イエスへの信仰告白のすぐ前に置かれています。弟子たちの業の一つとして「あなたがたが彼らに食物を与えなさい。」という主のお言葉のように、キリストの教会の使命を示しているとも言えます。しかし、さらに、イエス様こそ、神の御子、救い主であることを示すことにもなっています。 私たちには、自分たちの持っている力ではどうにも解決出来ない大きな問題に直面することが、何度かあります。ちょうどここで5000人にパンを供給するというようなことです。しかし、イエス様がそれを望んでおられ、私たちに責任を託しておられるのです。その時に必要な事は、自分たちのわずかなものを、救い主である主イエス・キリストにお献げするという信仰です。それは、主であられるイエス様を正しく信じていなければ出来ません。ですから、私たちの信仰告白と使命が密接に結びついているのです。 この5000人の給食の奇跡ほど、多くの合理的解釈が試みられたものは他にありません。しかし、いずれも成功しませんでした。どうしてかといいますと、人の入り込む余地を与えない、完璧な神様の奇跡だからです。どんなに人間が知恵を絞り、力を出し合っても出来ないことが、ここで起きているのです。神様の御業です。それでも、その神の働きの道具として、神さまは私たちを用いてくださいます。イエス様は、全く何もなかったとしても、この事をすることが出来たことでしょう。石ころをパンにもできるお方です。しかし、ここでイエス様はあえて、弟子たちに、どうしたらよいかと相談をもちかけました。そうしたら、少年が5つのパンと2匹の魚を持っていたのです。 しかし、弟子たちの反応はというと、「それが何になりましょう」ということでした。 イエス様は、その彼らの反応に目をとめ、そのことを大切な事とされました。確かに私たちの計算、私たちの判断、私たちの能力からすれば、どうにもならないところに弟子たちは置かれています。私たちは、何ごとも、「それが何になりましょう。」と言う答えを出しがちです。特に自分自身に対する可能性や、能力や、奉仕についてそうです。しかし主は小さな私たちのもてるものの可能性を大事にしてくださいます。用いようとしてくださるのです。主の手に委ねること、主に用いられることが大切なのです。あなたの持てるものを心から主に献げていくこと、それがイエス様を主キリストと信ずる者に求めておられる神様の御心なのです。 さて、今日はこの箇所から特に弟子たち、つまりイエス様とキリスト者である私たちに目を留めて、主が何をお示しになり、弟子たちの信仰をどのように神に向けさせるか。そして、委ねるとはどういうことなのかを、見て行きたいと思います。 今日の聖書の箇所では、イエス様は休息なさるために「人里離れた所へ」しりぞかれ、弟子たちにも休息するようにおっしゃられました。「人里離れた所」というのは、イエス様の祈りの場所でした。イエス様が神の子として天の父と親しくお交わりになる場所、それが人里離れたところであり、イエス様にとって何よりも安息の場所でした。そこに弟子たちを招待されたのです。 さらに、「舟に乗って」とあります。舟というのは、聖書の中で教会を表す大切な乗り物とされています。たとえば聖書の中で一番有名な舟は何かと言えば、「ノアの箱舟」です。神様は人間の罪を見かねて、この世を洪水で流し去ろうとされました。しかし、神様を恐れて暮らすノアとその家族だけは救おうとされて、ノアに大きな箱舟を造らせるのです。ノアとその家族は神様のことばを信じて忠実に箱舟を造りました。やがて40日40夜にわたる大雨が降り続き、大洪水によって地上の生きとして生けるものが亡ぼされてしまいます。しかし箱舟に乗ったノアと家族、選ばれた動物たちだけは、神様の裁きを免れました。 また、出エジプト記には、ヨセフによって迎えられたイスラエル(ヨセフの父ヤコブとその子供たちの家族)がエジプトに住み着き、多くの年月を経て、ヨセフを知らない王の時代に起こった出来事が記されています。エジプトの王は、国内にユダヤ人の人口が増えるのを恐れて、ユダヤ人の男の子が生まれたらナイル川に放り込んで殺すようにという恐ろしい命令を出しました。しかし、ヨケベドというユダヤ人女性は何とか赤ん坊の命を救おうとして、葦で編んだ籠に赤ん坊を乗せ、ナイル川にそっと流したのです。それがエジプトの王女に拾われ、王女の子として育てられるようになりました。その男の子こそが、後にイスラエルをエジプトから救うこととなったモーセです。 このように聖書には舟にのって救われるという話があります。舟は、神の守り、神の救いを表していて、それが教会にたとえられているわけです。逆に言えば、教会というのは、この世という荒海を渡り、私たちを天国の港へと導いてくれる救いの舟であるということです。教会という舟に乗って、私たちはイエス様の安息へと招かれ、導かれていくのです。 今日の聖書の箇所に戻りますが、イエス様は、二人組みにして弟子たちを福音宣教に遣わされました。この宣教の働きは、信仰がなければかなり厳しい伝道だったのではないかと思います。弟子たちにほとんど何も持たせないで、丸腰で宣教に遣わすというものでした。そこには、神に信頼することなしにその役目を果たせないような、かなり差し迫った緊迫感があるわけです。滅び行くイスラエルに対する後のない伝道というような覚悟が感じられるわけですが、それだけに弟子たちも行った先々において、受け入れられなかったり迫害されたりしたこともあったでしょうん。イエス様も、もしあなた方の話に耳を傾けないようなところがあったら、足の塵を払って出て行きなさいといわれたわけですから、困難な伝道であった事は予想されていました。 とはいっても、弟子たちを追って、多くの人々が追ってきたわけですから、彼らの神の国の宣教が、ガリラヤ地方の人々に大きな反響を呼び起こしたようです。そういう意味では困難さと共に、その困難さゆえに、多大な成果をあげた宣教でした。 いずれにしろ、相当過酷な伝道であったのでしょう。イエス様は、彼らに対して、「さあ、あなた方は、人を避けて寂しいところへ行って、しばらく休むがいい」と言われます。 伝道とか教育とか、そのように直接人と関わる働きは体力だけでなく精神的にもエネルギーを必要とします。弟子たちのところには出入りする人が多くて、彼らは食事するひまもありませんでした。休養が必要だとイエス様は判断されたから、弟子たちに、人を避けて寂しいところでしばらく休むように言われたのです。 休むという事には二つの目的があります。 一つは純粋にからだを休めるという事です。 二つ目は、大勢の人と接して消耗した心を回復する為に、人から離れて静かなところで、神様と交わって、新しい霊的な力を得るためです。 イエス様もそのようにしておられました。大勢の人を癒し教えたあとに、ひとりで山に上って神様と交わるということを繰り返したわけですけれども、イエス様でさえそうだったのですから、弟子たちにもそのように、しばし、人から離れて神様との交わりを持つということは必要だったはずです。そこで、寂しいところであるガリラヤ湖の東岸の地に船で渡ったわけです。しかし、なんと人々が、先回りして、陸地を徒歩で歩いて、彼らよりも先についていたのです。 舟が着いてみると、すでに大勢の人がそこで待っていたわけです。もう日が暮れようとしているのに、大勢の人たちが、それこそ自分の家から遠い人里はなれた向こう岸まで、それも、舟より先についたわけですから、お腹だってすくだろうに、何もそんなに慌てなくても、家に帰ってご飯を食べて、次の日にまたイエス様のところにくれば良かったのではないかと思いますが、彼らは次の日を待てないほど、その求めが激しかったということをあらわしているのではないでしょうか。それほど渇きを持っていたのです。 「
彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。」という言葉があります。 それと同じようなことが、イエス様の時代にも、ここで起こっているわけです。イスラエルを養うべく立てられているはずの祭司や律法学者が、羊を養う本来の仕事をしないで、私腹を肥やしている。それどころか律法主義を振りかざして、羊に鞭打っていたりしたわけです。そのような状態ゆえに、イスラエルの人々は、神の民としての真理の道から外れてさまよっていました。イエス様はその状態をご覧になって、深く哀れまれたのです。単に、民が病気だとか、生活に疲れているからとか、そういうことではなく、律法学者という牧者が本来の仕事をしなかった為に、神の民が歩む道から外れてしまってみじめな姿でさまよっていました。それ故に、イエス様は深く彼らを哀れまれたのです。だから、イエス様は舟から降りて癒しをされたのではなくて、いろいろと教えられていたわけです。さまよっている羊に必要だったのは神の国の希望の教えでした。祭司や律法学者たちに間違った教えを受け、霊的にやせ細っていた人々のために、イエス様は神の国の本当の教えを伝えて、養おうとされたのです。 マルコの福音書では6章33節に 「ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。」とあります。 これは弟子たちの大きな期待はずれを意味する言葉です。同じ31節には、弟子たちは「人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。」と書かれていますから、本当に休息を必要としていたのでしょう。そこにイエス様は彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われたのです。ところが、ようやく誰もいない静かな場所に来たと思ったら、群衆が先回りをして待っていたというのです。 この時の弟子たちの気持ちは、皆さんにも容易に想像できるのではないでしょうか。 やれやれ、これでやっと休めると思ったら、またお客さんが来る、電話が鳴る、誰かが問題をかかえてやってくる、新しい問題で悩まなくてはならなくなる。そんな時、天を仰いで、「神様、もういい加減にしてくださいよ」とぼやいてしまうことが、皆さんにもあるのではないかと思います。 教会でも同じです。 それは、牧師だけではなく、皆さんにとっても同じ事だろうと思います。 最初は教会に来て静かに礼拝を守って、静かに家に帰れば良かったかもしれません。しかし、洗礼を受けて、イエス様の弟子の一人になってきますと、教会でもいろいろな奉仕が廻ってきます。(弟子となるためには、イエス様がマタイの28章で言われたように、神のことばを教えられ、神の恵みを知り、愛の人となる訓練されなければならないのですし、・・・・・・奉仕は神様の愛に押し出されて、神様が喜んでくださることをしたいという思いから湧き上がって来るものですが) ここでの弟子たちは、まさにそういう状態にあったのではないでしょうか。本来なら、弟子たちも、イエス様と同じように群衆を憐れみ、身を粉にして人々に仕えたに違いありません。しかし、彼ら自身がくたびれていました。彼ら自身に休息と癒しが必要でした。とても、人々を憐れんだりする余裕はなかったはずなのです。けれども、そういう弟子たちの気持ちをよそに、イエス様は群衆をご覧になると、ご自分の疲れを忘れて、空腹も忘れて、ご自分を求めてくる人々を深く憐れまれたと書いてあります。 教会の忙しさというのは、このようなイエス様の愛の忙しさなのではないでしょうか。しかし、この時ばかりは、弟子たちもイエス様のこの限りない憐れみがあだに思えたのではないかと思います。 イエス様はその為に、3年半の公生涯で衣食を共にしながら、弟子たちを訓練されました。それこそ、赦し、励まし、期待しながら、限られた間で注ぎきれる全てを愛を持って歩まれたのです。今、私たちは、聖霊なる神様(助け主)によって、神様にお委ねすることによって、私たちの内にキリストの御力が働くのです。 5000人の給食というイエス様の奇跡は、弟子の立場に身をおいて読むとき、それが私たちキリスト者に対する神の大いなるしるし(キリスト者に与えられた恵みの型)となり、弟子たちの姿が私たちのあり方と重なるのです。いかに貧しく弱くとも、イエス様と共にあるときに、人々に心から与えることの出来る人に神の恵みによってなれるのです。 マタイの福音書では、弟子たちはイエス様に「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」 体のいい言葉で書かれていますが、要するに弟子たちは、「イエス様、もういい加減におわりにしてください。いつになったら私たちは休めるのでしょうか、私たちはもうくたくたです。限界です」と、弱音を吐いているのです。5000人の給食と言われる奇跡は、この弟子たちの言葉に端を発して行われるのです。群衆が「お腹が空いた」と騒いだわけではないのです。お腹が空いてくたびれ果てていたのは、弟子たちの方だったわけです。しかし、弟子たちは直接そういうことは言いません。自分がくたびれたとは言わないで、群衆がくたびれていますと問題をすり替えて、自分を正当化しているのです。ここに、弟子たちの内に正されなければいけない問題がありました。 弟子たちは、イエス様にどんなことも求めることが出来たのです。もし、くたびれているならば「くたびれた」と求めればいいし、お腹が空いていたならば「お腹が空いた」と言えば良かったのです。そうすれば、イエス様はそれをお聞きになって、弟子たちに必要な力を与えてくださったでしょう。 私たちも同じです。イエス様と共に働くといっても、イエス様なしに何かが出来るような人間ではありません。イエス様からの御力をいただくことなしには何もできない人間なのです。ですから、必要ならばどんなことでも求めれば良いわけです。それをしないで、「自分は大丈夫だけれど、あの人が・・・」というような問題のすり替えをしたり、言い訳をしたりしますから、自分に本当に必要なものを祈って与えられるということができなくなってしまうのです。 イエス様は、弟子たちの心の中にある偽善を見抜かれて、それに気づかせようとして、あえて弟子たちを困らせるようなお返事をなさるのです。 ヨハネの福音書では6章5〜7節に 「イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。『どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。』もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。 ピリポはイエスに答えた。『めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。』」 マルコの福音書では 「すると、彼らに答えて言われた。『あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい』。そこで弟子たちは言った。『私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。』(37節) そんなに群衆のお腹が気になるなら、自分たちで食べ物を与えればいいではないかと言われたわけです。もちろん、弟子たちが本気で群衆のお腹のことを心配していたわけではなく、それは口実にすぎないということをご承知の上で、イエス様はそのように言われました。ここで、イエス様は弟子たちの本当の求めを見抜き、それを満たしてくださろうとされたのです。 いったい、弟子たちの本当の願いとはなんでしょうか。弟子たちは群衆の空腹を満たすことではなく、自分たちの空腹を満たすことを願っていたのです。しかし、それもまた、実は弟子たちの本当の願いではありません。弟子たちは、本来、イエス様と共に弱い人たちを助け、愛のために働きたいという願いをもっていたに違いないのです。だからこそ、イエス様が「狼の中に羊を遣わすようなものだ」と言われるような難しい伝道の働きに、喜び勇んで出かけもしたのです。 しかし、今はそれをする力がない。哀れな群衆を目の前にしても、イエス様のように優しい気持ちにはなれない。できれば、自分の疲れなど忘れてそういう気持ちを持つ人間になりたいと思っても、やはりその力がないのです。弟子たちの本当の願いというのは、その貧しさを満たされることにあったのではないでしょうか。つまり、体が疲れていても、弱っていても、そういう肉の弱さや貧しさを克服して真の弟子になること、それが弟子たちの本当の願いに違いないのです。 それは、私や皆さんの心の中にある願いもまったく同じ事であろうと思うのです。実際には肉の弱さや心の貧しさがあって、とてもそのように生きることはできないのですが、できればそうありたいという願いをもっているのではないでしょうか。イエス様はそれを知り、その願いを満たしてくださるのです。 「するとイエスは彼らに言われた。『パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。』彼らは確かめて言った。『五つです。それと魚が二匹です。』」 弟子たちが持っているものは、わずかに五つのパンと二匹の魚だけでした。それは、せいぜいイエス様と弟子たちが少しずつ食べて満たされる程度のものでした。つまり、自分たちの分しか持っていないのです。これは、誰もが持っているもの貧しさを表しているように思います。私たちは、自分一人が生きていくのに精一杯の力しかもっていないのです。いや、それすらもあれば良い方です。自分が生きていく力にさえも不足しているのが私たちの現実ではないでしょうか。まして、人に与える物などまったくないのです。 しかし、イエス様は、弟子たちの持ってきた五つのパンと二匹の魚をご覧になって、「それだけしかないのですか」とは言われませんでした。確かに、私たちの持っているものは小さいのです。無きに等しいのです。「だから、私には何もできない」と、私たちは言います。しかし、イエス様はそうは言っておられないのです。その小さなものでも良いから持ってきなさいと、イエス様は私たちの貧しい献げ物を求めておられるわけです。 「するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。人々はみな、食べて満腹した。」 イエス様が弟子たちのもってきた献げ物を受け取り、祈り、そしてそれをもう一度弟子たちの手に渡して、人々に配らせると、なんと五つのパンと二匹の魚は五千人を超える人々のすべてに行き渡り、皆を満腹させたのです。 この奇跡の意味するところは、 第一に、たとえ私たちのもてる物がどんなに小さく、貧しく、無きに等しいものであっても、イエス様の御手の中で神様の栄光をあらわす物へと変えられるということです。こんな小さな力、こんな貧しき力など何のお役にも立たないと言ってはいけません。もとより私たちの貧しさなどイエス様は先刻ご承知なのです。イエス様が求め給うのは、大きな力、多額の献金ではありません。真実の献げ物なのです。それを、イエス様の御手によって神様のお役に立つものに仕上げてくださるのです。 第二のことは見落とし易いのですが、「弟子たちに渡しては配らせ」とあります。イエス様は、パンと魚を祝福して裂かれた後、それをもう一度弟子たちの手にお返しになったのです。そして、弟子たちの手で、それを配らせたわけです。五千人の給食という奇跡は、確かにイエス様のなさった御業ですが、そこで働いたのは弟子たちでした。このことは、イエス様が弟子たちにその働きをさせてくださったということなのです。弟子たちの願いは、自分たちの貧しさにもかかわらず、イエス様のまことの弟子となることでしたが、イエス様はそれをここで実現してくださっているわけです。 私たちもイエス様の真の弟子になることができるでしょうか。それができるかどうかは、私たちの知恵や力によるのではありません。私たちは、人に与えるようなものは何一つ持っていません。ですから、自分を守ろうとするならば、それだけで精一杯です。けれども、自分を守るということについては一切イエス様にお委ねして、小さく貧しい自分をイエス様の為にお捧げするということが必要なのです。そうすれば、イエス様は、私たちを神の国の豊かさに与らせてくださり、その無尽蔵の豊かさから、人々のために多くのものを与えることができる人間としてくださるのです。どうぞ、そのイエス様の祝福の御力を信じて、自分をイエス様にお捧げする者になりたいと願おうではありませんか。 5つのパンと2匹の魚しかなくても、それをイエス様は大きく用いて、沢山の人を肉的にも霊的にも養う力があります。そのことを信じていくとき、希望が湧いてきます。今いくら手持ちがあるから、これをしようということにとどまらなくて、その小さな手持ちをイエス様に祝福して用いていただけるのです。羊飼いのいない羊のようにさまよっている人々の霊的肉的な必要の為に献げていくとき、その献げられたものを、イエス様は大きく増やして用いてくださる。そこに希望があります。 私たちもその信仰をもう一度思い起こして、自分の持っているものすべてを神様に献げて、神様に豊かにしていただこうではありませんか。 何か生活において不足を感じておられるなら、神様の御手からもう一度いただいて、豊かにされましょう。その不足を感じる生活を、神様にお任せして御手に握りしめられて、満ち足りてあまりある生活へと出て行きましょう。祝福をお祈りいたします。 |