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[新改訳] コリント人への手紙第一 イースター(復活祭)は「春分の後にくる満月の次の主日」と定められていて、3月22日から4月25日の間に来ます。キリストの復活をこの日に祝うことは、初代教会以来の習わしで、キリスト教会暦の中でも最古の起源を持つものと言えます。日曜日はたいていの人にとって休日ですが、それが「イースター」を起源とすることは案外知られていません。 ところで、今、日本ではゴスペル音楽がひとつのブームになっています。日本で一般的に「ゴスペル」と呼ばれているのは、おもに黒人教会で歌われているもので、その中で聖歌隊の形態をとっているものです。 17世紀初め頃から奴隷としてアフリカから連れて来られた黒人の人たちは、彼らが仕えていた主人たちによってキリスト教を教えられました。住み慣れた故郷から強制的に連れてこられた彼らにとって、現実の生活があまりに悲惨だったために、イエス・キリストの救いと、苦しみのない永遠の神の国の約束はかけがえのないものになりました。生活の中での過酷な労働や苦しみの中で、生きておられるキリストを体験し、彼らの多くは熱烈な信仰をもつようになっていきました。当初は従来あった賛美歌が歌われていました。アメイジング・グレイスなどはその一つです。 もともとゴスペルとは英語で“Gospel”と綴り、God Spell(神の言葉)=Good Spell(良い知らせ)が変化した言葉だと言われており、日本語では「福音(=良い知らせ)」と訳されます。さて「福音」とは聖書のメッセージそのものを表す言葉です。それは、新約聖書ヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」という箇所にも集約されるように「神が無条件に全ての人を愛している」というメッセージを指し示す言葉でした。すなわち、本来音楽とは関係のない言葉だったのです。 今日の聖書箇所であるコリント人への手紙第一の15章は、復活の章としてよく知られています。 そこで、1〜4節の目を留めて福音の原点を学んで生きたいと思います。 1、2節では福音による救いが語られています。 1.福音の確認 1節に「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。」とパウロが言っていますが「福音」という言葉の意味は、「良い知らせ」ということでしたし、世間でもそのように使われています。 「ガン患者に福音」、ガン患者によく効く薬ができた。「痩せたい方に福音」飲むだけで痩せられる薬、「受験生に福音」カセットを聞きながら寝ている間に英単語が覚えられる、といった具合に使われます。要するに、問題や困難を抱える人に、あなたのその必要を満たすものがあります、という時、それを良い知らせ「福音」と呼んでいます。 ですから、この15章1節でパウロが、「私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。」と言うのは、「私は今、あなた方の必要や困難を満たし解決する驚くばかりの良い知らせを知らせましょう。」と言っているわけです。 聖書の中の福音とは、普段ではできないことが、イエス・キリストによってできるようになりました、これは人類にとって福音だという意味です。イエス・キリストによって人類にもたらされた福音、それは、普段できないことが可能になった事柄を現します この手紙の背景ですが、パウロは第2回伝道旅行の際、ギリシャのアカヤ地方の町コリントに立ち寄りました。そこで天幕造りをしていたプリスキラとアクラ夫妻とともに働きながら、ユダヤ人の会堂を中心に新しいキリストの福音を伝えました。それは、パウロ自身が受け入れた福音でした。その結果異教の偶像礼拝と世俗的な商業都市コリントの中にキリスト教会が形成していきました。その福音を受け入れた人々に対してさらに、「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(2節)と、聖書の福音を原点として信仰にしっかり立つように励ましたのです。 人類に対する救いのメッセージは、イエス・キリストによって創始され、弟子たちによって伝達され、多くの人々に受け入れられてきました。パウロは、自らがダマスコ途上で直接復活のキリストに出会って、この福音を受け入れたのでした。そして、この福音を受け入れた人々は、「この福音によって救われる」と言うのです。 逆に言うと、聖書は、人間には「救い」という必要があるのだと言っているわけです。 私達が本当の人生を生きるために、「救い」が必要だと言うのです。 私達が本当の人生を生きることを妨げるものがあります。罪、過ち、心の傷、孤独、不安、不満、災い、苦しみ、病、など色々なものが私達の人生を縛っています。その最大のものは「死」でしょう。誰も死から逃れることは出来ません。しかし、聖書は、これら全てからの「救い」がある、解放があると言っているわけです。単に楽に痩せられるとか、成績が上がるとかいったちっぽけな御利益ではありません。もっと大きな、私達の全ての問題を解決する真理の力、それが「福音」です。 2.福音の中心 パウロ自身が受け入れた福音の最も大切な要点は何でしょうか。この福音の内容を次のように簡潔に要約しております。2節に「すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、」とあります。 これによると、まず 1)聖書的であることを2回、 2)キリストの十字架の死、 3)その葬り、 4)三日目に復活したことを順序に従って並べています。 聖書に書いてあるとおり(福音の聖書的根拠)(3〜4節)について 聖書は旧約と新約に分かれますが、ここでいう聖書は旧約聖書です。そこには、来たるべきキリスト(メシア)に関する預言をあちこちに見ることができます。紀元前8世紀のイザヤは、53章で苦難のメシアを預言しました。そこで、十字架に掛けられ打たれ砕かれるメシアの姿が描かれました。 またエレミヤは新しい契約を結ぶ時代が到来することを示し、それは神が律法を民の思いの中に入れ、その心の中に書きつける時代がやってくると預言しました。それはメシアの到来と神の国と実現を預言でした。(エレミヤ31章節31〜) 罪のために死んだこと(3節) 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53章4、5節) これは明白な預言です、まさに数百年後に、その処刑場に居合わせて書いたかのようにリアルな描写をしています。 このような預言が、いくつも重なって実現したことは驚くべきことです。マタイやヨハネの福音書では特に旧約聖書の預言の成就を意識しているところがあります。(マタイ21章4節、27章9節、ヨハネ19章24,28,36)など。 普通ローマの習慣として十字架刑は死ぬまで掛けられていましたが、ユダヤでは安息日には不浄なものは見せないと言うことで十字架から取り下ろしました。その際、足の骨を折って殺しました。しかし、イエス様はすでに死んでいたのでこの預言は成就しました。 「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。」(イザヤ書53章9節) イエス様は悪者どもと共に十字架に掛けられ、富める人アリマタヤのヨセフの墓に葬られました。 葬られたこと(4節) 葬りということは福音の中ではあまり強調されませんが、イエスの死がまことに死であって墓に葬られたからこそ、続く復活の重みがあるのです。 今日の週報に書いてありますように、使徒信条でも、イエス・キリストは『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ死にて葬られ、陰府に下り』との告白をします。それはイエスの主なる働きが、“人に捨てられて十字架に付けられる”事であったからです。 ある学者は「葬りがあって確かに死なれたイエスが復活されたことに意義がある」として葬りのことを過小評価しないようにといいました。 使途信条は歴史的に教会が正しく歩む為に告白し続けてきたものです。いつの時代になっても教会の教えが変わったり、曲がったりする事がないように多くの人を通し神様が定めて下さった教えです。私達は教会がいつでも健全さを失うことがないように、これらのことをしっかり押さえていく必要があると思います。 使徒信条の始まりがどの様な状況下で出て来たかと言いますと、初代教会の時代、キリスト教は大変迫害された宗教でした。キリスト教徒であると分かっただけで、大変な危害を加えられる危険性がありました。ですから自分達は“クリスチャンである”という事もなかなか告白出来ませんでした。そんな時に彼等は一つの印を持ちました。「イクスース(ギリシャ語の魚の意味)」といいます。 これはギリシャ語で「イエス・キリスト」、「神の一人子」、「救い主」のそれぞれの言葉の頭文字をとった言葉が「イクスース(魚)」という言葉です。魚を描く事によって、「私はイエスが神の御子救い主である事を信じます」と告白したのです。その様にして使徒信条の基本のようなものが出来た様です。聖書はこんなに分厚い書物です。多くの事が記されています。全てを覚えるの大変ですが、少なくともこれだけを覚えておけば聖書の中心的メッセージがしっかりと残っていくという訳で信条が段々と築かれていったのです。私達は色々な時にこの使徒信条を心から思い出し告白さる者になりたいと思います。 三日目によみがえられたこと(4節) なんといってもこの復活は、十字架の死に次ぐ福音の二本柱です。使徒の働きのなかでも、使徒たちは、イエスの十字架の死と復活をペアで宣教いたしました。初代教会の宣教とその内容は、今日でも有効です。 メンデル・テーラーの『伝道の歴史的探求』によれば、「使徒達の説教を注意深く研究するならば、メッセージを提示するには、かなり一定した型があってそれに従ってなされたという事実が明らかとなる」として、次の文を引用しています。「それはまず、『これは預言者たちによって明らかにされたものである』との宣言によって始まる。それから、成就の時が来た。キリストこそはそれを成し遂げたもう主である。と続き、歴史的事実が述べられ、キリストの復活と天にあげられたもうたこと、それから栄光のうちに再び来たりたもうことが語られる。そして、最後に、悔い改めへの招きと、赦罪の提供が述べられる。」といっています。 中国に遣わされたハドソン・テーラーは、一生懸命に福音を伝えたのですが誰も信じませんでした。ある時に(イエスは神であられたのに、人間の世界に来て下さった。そして十字架にまでかかって下さった。)その事を思った時に、今までの自分の伝道方法が間違っていたと思ったそうです。以前、彼は自分が西洋人である事に一つの誇りを持っていました。しかしその時から、中国人の当時の髪型「辮髪(べんぱつ)」にして、中国人と同じ服装にし、中国人の名前を使う様になりました。その時から福音を伝え始めた時に今まで誰も寄りつかなかった人達が、次々に神様を求めてやってくる様になったのです。 イエス・キリストは自らの神の栄光を捨ててこの世に来て下さいました。私達も、いつもここに思いを馳せるべきではないでしょうか。その時今度は私達が何を成すべきかということが示されていくのではないかと思います。更に『陰府に下った』とあります。イエス様は苦しみの地にまでも下って下さり、私達を救い出して下さったのです。 私たちも福音の原点に戻って、イエス・キリストを明確に信じて復活のいのちに預かろうではありませんか。 大谷勝子さんという主婦がこのような詩を書いておられます。 十字架 罪がわからなかった時 イエスさまの尊い尊い十字架がわからなかった 罪を知らされた時 イエスさまの十字架が必要となった 恵み深い 愛の十字架 愛の十字架 私の罪は全部ゆるされた 罪を知らない人にも イエスさまは招いておられる 十字架のもとに 主イエスは招かれる 来たれ 来たれ 十字架のもとに 来たれ 来たれ 十字架のもとに 父なる神様は、愛するひとり子のイエス様を、この世に遣わしてくださいました。それは、すべての人間の「罪」をこの方に負わせ、十字架上で私達の身代わりに罰するためでした。まったく「罪」を犯されることのなかったイエス様は、十字架で生きたまま両手両足を釘付けにされ、死なれたのです。そして3日目の朝には、死の力を打ち破りよみがえってくださいました。これらは歴史的な事実です。イエス様はご自分が神であり、救い主であり、そして本当に人間を愛しておられることを、その「十字架と復活」によって、はっきりと示してくださったのです。 信仰生活は、聖書に示された神の約束を信じて生きることです。神のことば信頼する故に、従順するときに神の約束があなたの人生に祝福となって成就していくのです。 聖書はこのように語っています。つまりイエス様の十字架と復活を信じるなら、それだけで誰でも「罪」が赦されて、死後の神様の怒りに会うことなく、永遠のいのちをいただいて、なんの功績もないものが、ただ恵みによって神の子とされ、御国に連なる者へとなるのです。 そして、イエス様が約束されたように、今生きている私たちの内に聖霊なる神が住まわれ、私たちを内側から新しく造り変えていってくださるのです。信仰によって、罪の支配から解放された、キリストにある自由人としての生涯を、神様の祝福をいただいて生きることが出来るのです。何と幸いなことでしょうか。これは、一方的なな神の恵み以外のなにものでもありません。 もう一度、自分に問いかけてみましょう。私たちは、福音をどのように信じ、信仰を持って生きているのか福音の原点に戻り、十字架の愛と復活のいのちをいただいているのだという信仰を確認したいものです。お祈りいたします。 |