新しい年、みことばを慕い求める日々に


今日の聖書箇所:第一ペテロ2章1〜10節 新改訳 ペテロの手紙第一
2:1 ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、 2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。 2:3 あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。 2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。 2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 2:6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」 2:7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、 2:8 「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。 2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

ある宣教師が年頭の挨拶でこのように祈りました。 「昨年の苦しみと悲しみは、わたしの今年の心の肥料になるように。昨年の喜びと幸せは、今年出会う人々の心を潤し、喜ばせ、神と人々に感謝する実を結ぶように祈ります。」 昨年、神の恵みと祝福を教会が体験したとおり、年頭から祈祷委員会のメンバーが毎週祈りあい、心を合わせて主に信頼して歩んだ結果が今年の日本人教会としての第一歩の基礎となったように思います。忠実な主のしもべが、喜んで主と交わり、得た結果です。主を讃めたたえます。 ヘンリー・ナウエン女史が祈りについてこのようなことばを残しておられます。 私たちが祈りにあふれて互いを受け入れ合うとき、そこには偏見の余地はありません。そのとき、相手のことを決めつけるかわりに、私にとって常に新しい存在として迎えているからです。このようにして、私たちは他者と対話することができ、心から心に語るように生活を分かち合うことができます。

ある学生がこう書いています。「よい会話とは、共に祝い、共に悲しみ、互いに励まし合いながら、前向きに進んでいく命に満ちた力と意味を、互いに与え合うプロセスだ」と。 その通りだと思いませんか。 さて、今読んでいただいたみことばの2章2節は、今年の年間聖句です。皆さんが講壇をご覧になって、すぐに気づかれたと思いますが、この掛け軸はトキ子執事が書いてくださり今日の礼拝に合わせて準備してくださったものです。この1年間、毎日このみことばに心を留め、「生まれたばかりの幼子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求める」お一人お一人であってほしと願っています。 私たちはキリストの花嫁であり、キリストは皆さんの花婿であられるお方です。ベタニアのマリアのように、イエス様のことばに今こそ聞き入る時です。私たちは時を見分ける目をいつも開けていなければなりません。

この2章では、ペテロはクリスチャンに与えられた大きな特権とまた責任について述べています。 1節から10節ではこの生ける石であるキリストについて書かれています。1章の最後のところで、私たちが新たに生まれたのは、「生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによる。」とあります。そこで2章は、生ける神のみことばを私たちが純粋に摂取していかなければいけないことをペテロは述べています。  ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。ペテロが列挙している悪いものは、みな、心の動機のことです。悪意、ごまかし、偽善やねたみなどは、他の人々が認めることができるときもありますが、表と裏、建前と本音を使って人々に接することです。私たちにとって、みことばを慕い求め、神様の恵みと祝福を受け取ると同時に、今度はみことばの種を蒔く者として、人々の中へ出て行かなければなりません。種まきは労苦のいるものです。

しかし、蒔けば、その労苦を喜びで刈り取ることになるのです。幼子のようになって、主に信頼し、今年も共に歩んで生きましょう。ここでペテロは、その主がどのような方であるか紹介しています。主イエス・キリストは、「人には捨てられたが」、「神の目には、選ばれた、尊い、生ける石」です。この手紙は、苦しみの中にあって、迫害を受けているクリスチャンを力づけるために主に書かれています。世の中は、聖書の預言のみことばの示す通りに歴史が進んでいます。そして、ますます、人々の心は冷え、愛のない世界になりつつあります。愛の塞である家庭が崩壊し、世界中で自然災害も年々増えてきています。ですから、変わることのない壊れる事のない土台を人生の土台としていなければ、砂の上に建てた家のように、簡単に押し流されてしまいます。

苦難や問題が起こる人生に、クリスチャンが苦しみの中でその支えとなるのは、主ご自身です。主のもとに来ることです。一見、人の目からは何の価値もないように思われる「人に捨てられた方」が実は私たちにとって避けどころにであることを思い出します。人には捨てられた方なのですが、神の目からは選ばれた、特別な存在です。「生ける石」とありますが、旧約聖書の中には、数多く、主が「石」であると形容されて、メシヤが石とか、岩にたとえられています。主が神に選ばれた方で、尊いように、主にあって選ばれたクリスチャンたちも、人々に悪口を言われたり、さげすまされたり、ひどい扱いを受けても、神の目からは尊い存在である、ということです。  

主が土台となっている石であるならば、私たちは、その家を構成する石です。イエスさまは、「わたしは、このペテロの上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)」と言われました。ペテロはこのことをイエスさまから言われる前に、「あなたは生ける神の御子キリストです」という告白をしていました。「イエスが神の御子キリストです」という信仰告白が土台となって、教会が建てられています。 地上の幕屋または神殿には、聖所で主を礼拝し、仕えている祭司たちがいますが、ペテロは、新たに生まれたクリスチャンたちが、「聖なる祭司」であると言っています。旧約聖書の時代、地上の神の宮にて、祭司たちは、動物のいけにえや穀物のささげものをささげました。

今、キリストの救いが完成した恵みの時代に生かされているであるクリスチャンは、「イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」と命じられています。ヘブル書13章15節には、「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」と書かれています。ですから、私たちが神への賛美を歌でうたうこと、また祈りの中で神に賛美して、感謝することは、霊のいけにえを、聖なる祭司としてささげていることに他なりません。

2章5節、9節に「私たちは祭司です」とありますが、「祭司」と記されてある他の聖書箇所をみてみましょう。 「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト記19章5〜6節) 「しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ…」(イザヤ書61章6節) 「わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし…」(イザヤ書66章21節) 「ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。」(黙示録1章6節) 「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。」(¥黙示録5章1.節)

これらのみことばに明らかに、クリスチャンは神の祭司であることが記されています。 それでは、祭司の役割はどのようなものでしょうか。 祭司の役割は第一は祈りです。モーセは神に、罪を犯したイスラエルの民のために、何度もとりなしの祈りをしています。(出エジプト記32章30−35節、民数記14章11−23節参照) 主イエス・キリストは、祭司として私たちのためにとりなしの祈りをしてくださっています。(ヨハネの福音書17:9節) ですから、私たちも互いに祈り合いましょう。 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、任命を受けました。(ヘブル5章1節) 「神に仕える事がらについて」、「人々に代わる者として」、「ささげ物といけにえとをささげるため」にでした。

万人祭司の時代に生きる私たちが、「主にいけにえをささげる」とは「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12章1節)私たち自身が霊的な生きた捧げもの、神にささげられたものです。 「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは、異邦人を聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」(ローマ6章5節)

私たちは家族や友人の未信者を祈りを持って祝福し、主にお委ねしましょう。そして、初めにキリストが愛してくださったように愛しましょう。 あなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。(ピリピ4章18節)  賛美のいけにえを絶えずささげましょう。(へブル13章15節)、「善をおこなうこと、持ち物を人に分けること、神はこのようないけにえを喜ばれます。」(同16節) 感謝や讃美のいけにえ(いけにえは心から全き献身を持ってお捧げする事です) また、その目的は「あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためです。」(第一ペテロ2章9節)私たちが選ばれた種族になっているは、私たちが特権意識や優越意識を持ったりするためではありません。

それは、主が行なってくださった、すばらしいみわざを他の人々に宣べ伝えるためです。「やみ」というのは、罪の中で死に、肉の思いによって生きていた状態のことです。「驚くべき光の中」とは、罪が赦され、義と認められ、神の子どもとなる特権が与えられ、神の家族となったことです。このようなすばらしいことをしてくださった方のみわざを、私たちは他の人々に分かち合います。   私たちが選ばれ、王なる祭司、聖なる国民となっているのは、ただ恵みによるのであり、主のあわれみと恵みを忘れることなく、この大きな特権に驚きおののいて、苦しみの中でも深い慰めを得たいものです。 イスラエルではユダヤ人の家や公共機関に、おのおののドア枠のところに『メズーザ』という小さな細長い箱が取り付けられています。その箱の中にみことばを入れ、出入りするたびに神を思い出すようにしています。 私たちも、主のみことばを慕い求め、主が約束してくださった恵の中にある祝福をいただくものとしてまず主と深い交わるを持つ時、みことばの学びと祈りとデボーションをこの一年習慣とするために、時間を聖別していきましょう。その時、祭司であるアロンやその子供たちに主が約束された祝福が、私たちの祈りを通して、主ご自身の祝福をいただける共同体となれるのです。 最後にアロンの祝等を持って終えたいと思います。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」 イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。