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王様は一体だ〜れ!!(イエスとロバの子・・最後のエルサレム入場) 04/04/2004
聖書箇所:マタイの福音書21章1〜11節
[新改訳] マタイの福音書
21:1
それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、
21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。21:3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
21:4 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
21:5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」
21:6 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。
21:7 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
21:8 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。
21:9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
21:10 こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。
21:11 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。
教会の暦においては、今日は棕櫚の日曜日といわれるイエス様の最後のエルサレム入場の日です。このエルサレム入場の記事は4つの福音書すべてが記録しています。何故なら、これは福音の中心である「キリストの受難(パッション)と復活」の始まりだからです。
私たちの歴史を振り返るとき、イエス様のようにロバに乗ってエルサレムという一つの国家の中心に乗り込んでゆく姿は他に類のないものです。
日本の歴史の中でも、武力が関係せずに政権の交代が行われたことはほとんど例がありません。明治維新も軍隊が江戸に押し寄せて新政府が樹立されます。民族の解放という名目での政権の交代においても、それが武力によらなかったのはほとんどありません。数少ない例外の一つはガンジーによるインドの独立でしょう。彼の非暴力主義の抵抗運動は、キリスト教の影響のもとに行われたのは周知の事実です。
王の王であり、真の王である私たちの主イエス・キリストが武力を用いなかったことは、私たちに大きな疑問を投げかけ、そして真実を明らかにしてくれます。彼はこの世界のまことの支配者であったから、そのような武力を必要としなかったのです。彼は自分のところに帰ってきたので武力で奪う必要はなかったのです。
今、私たちの祖国日本は、自衛隊を派遣によって、イラクのことが対岸の火事ではすまない、緊迫した状況になりました。アメリカでのイラク派兵に伴う死者はすでに600人を超えました。毎日のようにイラク国民と、そこに派兵された国々の兵士に死者が出ています。また、イスラエルとパレスチナの紛争はますます激しくなり、暴力の応酬が繰り返されています。アメリカ・イギリスのイラクへの介入は、平和をもたらすためにというお題目で、馬にのったメシアのごとく、圧倒的な軍事力を行使したものでした。その結果、平和がきたどころか、全く反対に、状況は日に日に泥沼化しています。そして、世界中に連鎖的な治安の悪化を引き起こしています。馬に乗ったメシアでは、まことの平和は来ることはありません。このことは、人間が自らの手で破滅を呼び込む幕開けのようです。
私たちは歴史の中で常に武力による政治や国の体制の変化を見ています。それは今も起こっています。
なぜ、一つの権力の背後に武力が必要なのでしょうか?それは、自分たちのものではないものを私たちが自分のものにしようとするからに他なりません。これが私たちの歴史です。しかし、歴史から学ぶことなしに、国は国に敵対し、主の再臨を間近かに呼び込んでいます。どのような理由にしろ、最近聞かされる言葉は国益ということです。義の為というよりも、国益によってそれぞれの国は選択をしているのです。聖書の日時計が動き出しています。しかし、神はこのような時にも、残りの者(レムナンント)を残しておられます。昨日、Japan TVで放映されていた、テロやイスラエルの攻撃によって死亡した家族(パレスチナ、イスラエル双方)の人たちの和解の使者です。平和を創ろうと懸命に働いている人たちです。痛みを自分の身に負った人たちです。
イエス・キリストがエルサレムに入場はヨハネの福音書1章9〜11節に、
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
とあるように、イエス様はご自分が創られた世界に来られたのです。
ここで、イエス・キリストがロバに乗ってエルサレムへ上って行く有様は三つのことを意味しています。
第一は、父なる神の約束に対する誠実さです。
第二は、イエスの父なる神への従順です。
第三は、イエスがキリストであることの聖書による証です。
マタイの福音書で記されているイエス様のエルサレム入城を見ますと、イエスがどのような仕方で神を人間に近づけようとしているのかがよくわかります。それは預言者によって語られて来たことの実現でした。それはエルサレムへの王の入城にほかなりません。そのときイエスにとってひとつの条件がどうしても必要でした。どのような仕方でもよいというのではなかったのです。それは奇妙なことに、イエス様が子ロバを選ばれたことです。ローマの騎士たちが乗るような背の高い、屈強な馬にではなく、見栄えのしない、貧弱な子ロバに乗って入城されるというのです。
王の入城というにしては、人の目にはいささか奇妙と映る光景です。しかしイエスは決しておずおずとでもなく、また数多くの巡礼者たちの中に隠れて門をくぐられるのではありません。それは紛れもなく、王の入城でした。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』(5節)イエスのあの姿をみたとき、何も言わなくても、人々の心にはこの預言者ゼカリヤの言葉がすぐに思い浮かんだことでしょう。
「娘シオンよ、大いに踊れ。 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」(ゼカリヤ書9章9節)
当時の民衆にはすぐにその意味がわかったはずです。そこにやってきたのは、柔和な王、平和の君でした。慈しみと癒しと食卓の交わりにおいて、神の支配の始まりを告げる方でした。
今日の聖書箇所の舞台になるオリーブの山というのは、よく聖書に出てくる山です。エルサレムの東に位置する山で、山頂はおよそ800メートルで、そこから、エルサレムの町が一望に見渡せます。旧約聖書のゼカリヤ書というところに、メシアは、エルサレムの東にある、オリーブ山の上に現れる(14章)と記されていて、その預言のとおり、イエス・キリストは、最後の一週間、このオリーブ山の周辺で過ごされます。あの、血の滴りのような汗を流して祈ったというゲッセマネの園も、オリーブ山のふもとでした。そのように、旧約聖書の預言にしたがって、イエス・キリストは行動されるようになります。
民衆は今、それをロバの子に乗ったイエスに期待し、王様として大歓迎をしています。
しかし、誰一人として、イエス様がこれからエルサレムに入っていく本当の理由を知る人はいませんでした。ただ、自分たちの願いをかなえてくれる王として、彼らは歓声を上げていたのです。まさか、無力に十字架に架けられる王様だとは、誰一人考えもしませんでした。彼らはただ、自分たちの願いと期待に胸を膨らませて、イエス様を王様に祭り上げようとしたのでした。
しかし、そのほんの数日後に、この大歓声でイエス様を王に祭り上げた人々が手のひらを返したように、イエス様に向かって「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫びだしたのです。自分たちの期待したような、王でなかったことがわかるや否や、手のひらを返して、イエス様に罵声を浴びせる民衆たちでした。結局、エルサレムの人々は、イエス様を王として迎える気などなかったことが明らかになりました。
王様を迎えるということは、逆を言えば、自分は王のしもべ(従順に仕える者)になりますということです。イエス様に王様になってくださいということは、自分はイエス様のしもべになりますということです。しかし、エルサレムの人々は、イエス様に、自分の願いをかなえてはほしかったけれども、しもべになるつもりはなかったのです。そういう意味で言えば、ちっともイエス様を王様として迎えていなかったわけです。実は、王様はあくまで自分だったゆえに、イエス様が期待に沿わないと分かったとたんに、「十字架につけよ」と叫んでいったのでした。
このように、王様はあくまで自分自身として生きていくから、人生苦しくなるのではないでしょうか。自分が王様だと思っているから、自分の人生が自分の思い通りにならないといらだってしまいます。自分が王様だと思っているから、人が自分のいうことを聞いてくれないと腹を立ててしまいます。自分が王様だと思っているから、自分の思いとおりにならない人生が不満だらけになるのです。皆さんはいかがでしょうか。
自分の人生は、自分が王様になって、誰にも束縛されないで自由に生きるのだと思うのですけれど、実は自分が王様になると、不自由になることがお分かりになるでしょうか。
欠点だらけの限りある人間が、王様や独裁者のようなものになるなら、周りの自由は失われていきます。そのように、欠点だらけの限りある人間が、たとえ自分の人生であろうとも、王様として振舞うなら、結局自分も回りも不幸になっていきます。夫婦の間で相手を支配しようとしたり、子どもを支配しようとしたりします。そこにあるのは、自由ではなく束縛です。このように人間は、本来、王様になってはならないのです。王には王にふさわしい方がなるべきであり、聖書は、その王とは、すべてを作られた神だと教えているのです。
神を信じる信仰とは、言葉を変えていえば、自分が王様になるのをやめて、神様に自分の王様になってもらうことです。しかし、人は時に、自分は王様のままで、神様を家来のように自分の意のままに動かそうとし、それが信仰だと勘違いしてしまって、祈りが聞かれないといっては神に不満をいったり、自分の願いがかなわないといっては、神に失望したり憤慨したりしてしまうことがあります。自分が王様であるうちは、神を信じるといっても、不満や不平から解放されることはないわけです。本当の信仰の喜び、そして束縛からの解放、自由は、自分が王であることをやめて、神様に王になっていただくところにあるのです。王様には王様にふさわしい方がなり、自分は、その王様の導きを得るとき、初めて私たちは自由で幸いな人生を生き始めるようになるのです。
馬に乗って凱旋するメシアではなく、へりくだり、人々に仕えてくださったお方。私たちの罪の身代わりとして、ご自分の命を十字架に捨ててくださるために、ロバに乗ってやって来てくださったお方。このイエス・キリストこそが、私たちの本当の王となるべきお方なのです。このイエス・キリストだけが本当の平和をもたらすお方だと、聖書は教えているのです。
インドの劣悪な環境の中で、死に行く人々に仕える過酷な奉仕を続けたマザー・テレサに、あるとき新聞記者が
「なぜ、あなたはなぜカルカッタの酷暑、世界最悪の生活環境の中で、こんな奉仕を続けられるのですか。」と質問されたとき、彼女は、こう答えました。
「それは、ただ、主イエスが、私にしなさいと仰せられたことをしているだけです。」
自分の名誉のためでも、自分の誇りのためでもなく、ただ、ロバに乗ってこられた、イエス・キリストという王の言われたことに従っているだけだと彼女は言われたのです。
だれが、自分の人生の王になっているのかで、その人の人生は大きく変わっていきます。力によって支配する、馬に乗った王なのか、それとも、ロバにのって、人々に仕えるためにやってきた王なのかです。そして、本当の意味で、人々に真の平和と祝福をもたらす王は、馬に乗った王ではなく、ロバの子に乗ったイエス・キリストなのです。
マザー・テレサのように、一人の人がこのロバに乗ったキリストを自分の王として歩むとき、何万という軍隊にも作り出せない、真の平和、愛、希望が、その一人の人の人生を通して人々の間に流れていくのです。
一人の人がイエス・キリストを自分の人生の王とお迎えするとき、そこから始まる祝福は計り知れません。あなたもそのような祝福を得たいとは思われませんか。そして、平和の使者として遣わせていただこうではありませんか。
今こそ、私たちは、このロバにのって来てくださったイエス様を心にお迎えして、まことの祝福にあふれた人生をご一緒に歩んでまいりましょう。お祈りいたします。
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