「涙を流されたイエス様」 聖書箇所: ヨハネ11章17〜53節

[新改訳]  ヨハネの福音書  
11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。

11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
11:28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。
11:29 マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。
11:30 さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
11:42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。11:46 しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。
11:47 そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。
11:48 もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
11:49 しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。
11:50 ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」
11:51 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、
11:52 また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。
11:53 そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。

皆さんは涙を流したことがありますか。もちろん、あると思います。どんな時に涙を流されましたか。

人は悲しいときに涙を流します。大切な人が死んだとき・・・。

人は嬉しいときに涙を流します。かねてからの願いがかなったとき・・・・。

長く離れてくらしていた家族とやっと会えたとき・・・。

人は悔しいときに涙を流します。実力を十分に発揮できずに敗れたとき・・・・。

人は感動したときに涙を流します。家族の愛のすばらしさに出会ったとき・・・・。

ドラマチックな試合を見たとき・・・・。

人は様々な状況で涙を流します。 涙はその人の感情を如実にあらわします。

イエスが「友」と呼ばれたラザロが死にました。そのラザロの「悲しみの報せ」を聞いたイエス様は、ラザロの姉妹マリアとマルタのもとを訪れました。そこでイエス様は姉妹たちや集まってきた人々の涙を目の当たりにします。そのときイエスは「心に憤りを覚え」、ご自身も涙を流されたと聖書は語っています。

 厳しい競争社会を生き抜くために、私たちは知恵を身につけ、様々な資格を取り、少しでもいわゆる「上」を目指して歩んでいます。脇目もふらずにです。しかしそのような「上」に向かっての歩みは私たちの心を「一点集中」に向ける為、多くのものが死角に入ってしまいます。そんな中で意識的にも無意識的にも視界から消えたものがあるのではないでしょうか。

たとえば隣人の涙に接し、立ち止まることをしなくなったこと。自分には無関係なこと。
 自らの精進のためには余計なことには見向きもしない自分がいないでしょうか。そのような事を、省くことのできる時間と決めつけ、無関心を装っている自分がいないでしょうか。もし、それが家族や親しい友であったなら涙したかもしれないことが・・・・。

 イエス様には、人類に「福音(救いと喜びの報せ)」を宣べ伝えるという大きな目的がありました。しかしイエスの歩みは、すべての人にとっての福音という、とてつもなく大きな目的に向かって脇目もふらずに進む、というものではありませんでした。目的に向かって真っ直ぐにではあったものの、その歩みは具体的な、目の前の一人の悲しみに寄り添い、共に涙を流すことから始まったのです。

 他者の悲しみに自らも共に立ち止まり、涙を流すことは、私たちにとって、まわりの世界を変える大切な一歩であるように思います。あなたは、最近、涙することから遠のいてはいないでしょうか。心に感動や悲しみ、喜びを覚えることから遠のいてはいないでしょうか。

私の母は肝臓がんと戦っていますが、昨年、もう余命も2年ぐらいだと医師から宣告されました。もう7年も会っていない光穂と共に家族全員が揃うことを待ちながら、一生懸命それまでは生きようとしている気丈な母です。その母が電話で光穂に会いたいと泣きました。どうにもならない病気との闘いの中で、母の弱さを見ました。私の記憶の中で母が涙したのは、私が放蕩した時のこと、父の突然の死、母の両親や兄弟の死以外には余り覚えがありません。ですから、そんな母の涙に光穂もわたしも心を揺さぶられていました。病気であっても、入院しても、私が心配するからと、特に連絡することのないように気遣ってくれる母だからです。

さて、聖書の一番短い節は今日の聖書の箇所にあるヨハネ福音書11章35節の「イエスは涙を流された。」です。ラザロの葬られている墓に向かう途中で、「イエスは涙を流された。」と記されています。その日、どうしてイエス様が泣いたでしょうか。そのすぐ後に、ラザロを復活させる事を知っておられたのに、何故泣かれたのでしょうか。イエス様には甦らせる力がありました。それなのに、なぜ涙を流されたのでしょうか。

33節では、マリヤとユダヤ人たちが「泣いていた」と言われています。これは、声を上げて泣いていたことを示しています。これに対して、イエス様は涙を流されました。それは、それを見たユダヤ人たちが、「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」と言ったように、人目をはばかることのない涙でした。

ここには、イエス・キリストが、何に対して涙を流されたのかが記されていません。自然に読めば、それはラザロの死に対しての涙であると思われます。それとともに考えられるのは、ラザロの死においてその姿を現実的に示している、人間の罪とその結果である死と悲惨に対する涙です。

ところで、ある注解書は、イエス・キリストがラザロの死に対して涙を流されたという見方に異議を唱えています。その理由は、この時、イエス・キリストは、まさに、ラザロをよみがえらせようとしておられるからであるというのです。これは、一つには、マリヤとユダヤ人が泣いていることが不信仰から出たことで、それに対して、イエス・キリストが、激しい憤りと動揺を感じられたとする解釈とつながっています。確かに、そこにキリストがおられるのに、なおも望みがないかのように泣いているのは不信仰であると言う人からしますと、当のイエス・キリストがラザロの死に涙を流されることは、おかしいということになります。

けれども、イエス・キリストはマリヤやユダヤ人たちが泣いていることを不信仰だとして、激しい憤りと動揺を感じられたと考えることはできません。

それでは、いったい、どのような涙だったのでしょうか。

第一に、この涙はイエス様とラザロの間の友情と愛の深さを顕わしているのではないでしょうか。ラザロは友人で、イエス様は何回もラザロとその姉妹のベタニアの家で泊まった事があります。ですから、ラザロの病気と痛みと死を聞いた時、イエス様はその友の為に本当に悲しみました。イエス様は私たちと同じように、よい友の死ぬ事を理解する事が出来ましたので涙を流されたのです。

第二に、いつか死ななければならないすべての人間の為に泣かれたのではないでしょうか。イエス様はすべての人々が苦しまなければならない痛みと悲しみが分かりました。

第三に、罪の為に死ななければならない人間の悲しい状態の為に泣かれたのではないでしょうか。

第四に、イエス様の涙は創世記6章6節の「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」といわれた神様の悲しみと同じではないでしょうか。神様は地上の人間に悪が増大していくのを見られました。それで、すべての生き物を地上からぬぐい去る為に洪水を送りました。地上に生きるものすべての恐ろしい全滅の為に、神様が悲しみました、この洪水は父の涙のようです。ですから、約束のしるしとして虹を空にかけて言われました。
「 わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」(創世記9章11)
 ですから、再び世界を全滅しないで、今度、世界を罪と死から救い出す為に、神様はイエス様を送りました。

第五に、イエス様が涙を流すのは、御自分の死を見たからだったからかも知れません。ラザロにだけではなくて、すべての死者に命を与える為に、イエス様ご自身が苦しんで死ぬ事が必要である事が分かりました。泣くほどの悲しみをもって、十字架上で叫びました、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と。その時、イエス様の多くの友が彼の為に涙を流しました。詩篇22編のはじめにはこの言葉が記されています。

[新改訳]  詩篇22篇1〜10節
22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
22:2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
22:3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

22:4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
22:5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
22:8 「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
22:9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
22:10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。

ここには記しませんが、イザヤ書53章にもこのことが記されています。

第六に、イエス様の涙が、この世の悲しみと痛みとの深い連帯関係を造られたのではないでしょうか。御自分の死と復活の為の熱心さを彷彿させたのでしょうか。墓でのイエス様の涙は、ラザロを復活させて、彼を自分の家族であるマルタとマリヤのもとへ戻しました。イエス様の十字架上での涙は私たちを復活させて、神様の家族に私たちを戻します。これは私たちの希望であり、確かな約束です。その為に、主はよみがえられたのです。

最後に、神様は私たちが涙を流すように呼びかけます。私たちの住む世の痛みと堕落の為です。そして、その涙の中で、この世のためにキリストに生きて、自分に死ぬ熱心を見つける事が出来るでしょう。イエス様の涙は私たちに力を与えます、即ち、捕らわれた人の自由の為に、飢えた人にパンを与える為に、悲しむ人に慰めを与える為の力です。又、この後に来る、素晴らしい喜びのの為に、イエス様の涙が私たちに、主の後に習うようにと準備させます。

イエス・キリストは、平然と、ラザロをよみがえらせたのではありません。ラザロの死に直面して、人々が泣いているのに、ご自身は、平然として、自信たっぷりに「まあ、私に任せなさい。」などと言われて、ラザロをよみがえらせたのではありません。むしろ、そこに牙をむき出している人間の罪とその結果である死と悲惨の現実に、ご自身が誰よりも深く「刺し通されて」、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」られたのです。だからこそ、主はラザロをよみがえらせてくださったのではないでしょうか。

私たちも、ある悲惨な現実に直面した時、そのようなことがあってはならないという、憤りにも似た思いを持つことがあります。そして、できることなら何とかしたいと思います。また、実際に、何かを始めることさえあります。

今も世界中で、民族が民族に対して敵対し、多くの人々の血が流されています。それぞれが自分を主張し、敵対しあっています。また、悪が増大しています。日本でも、以前にはほとんど聞くことのなったような、憤りを覚えるような事件が多発しています。

ここまで私たちは、イエス・キリストがラザロの死に直面して、そこに牙をむき出している人間の罪と罪の結果である死と悲惨の現実に、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」られ、さらに、人目をはばかることなく涙を流されたことを見てきました。

イエス様の涙は、ラザロの場合だけでなく、ご自身が接してくださったすべての人々の痛みと苦しみと悲しみを、ご自身のものとして背負ってくださったことの、典型的な現われでした。

あなたは、今、イエス様のこの姿に何が見えるでしょうか。

イエス・キリストは、人間の罪とその結果である死と悲惨の現実に、このような「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」ておられたからこそ、そして、ご自身のことのように涙を流しておられたからこそ、私たちの罪を贖ってくださり、私たちを罪とその結果である死と悲惨な現実から贖い出してくださるために、十字架に向かって、真っ直ぐに進んでくださったのだということが見えて来られたでしょうか。

私には、そこに、何としてでも、私たちを罪とその結果である死と悲惨な現実から贖い出そうとしてくださったイエス・キリストの愛、父なる神の愛が映し出されていることが見えてきます。

マルタに言われた、驚くべき素晴らしい約束を見てみましょう。ヨハネ11章25,26節です。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。』

そして、イエス様はマルタに質問します、「このことを信じますか。」

この質問は私たちにも問われています。そして、信仰を持って、私たちはマルタと一緒に答えます。

「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

と。この告白が、あなたを救い主キリストの御もとへと導くのです。そして、聖霊なる神があなたに語りかけられるでしょう。そのとき、あなたは涙するでしょう。あなた自身の罪と、その代価として十字架で贖って下さったイエス様のために。ご一緒にお祈りいたしましょう。