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信仰の一線を越えて前進する者へ ヨシュア記3章1〜17節 3/21/04
[新改訳] ヨシュア記
3:1
ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。
3:2
三日たってから、つかさたちは宿営の中を巡り、
3:3
民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。
3:4
あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」
3:5
ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」
3:6
ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。
3:7
主はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。
3:8
あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」
3:9
ヨシュアはイスラエル人に言った。「ここに近づき、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」
3:10
ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。
3:11
見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。
3:12
今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。
3:13
全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」
3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。3:15
箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、・・ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・
3:16
上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
3:17
主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。
先週、金曜日、土曜日の二日間、ノースカロライナのバプテスト州連合の主催する、「祈りと霊の覚醒」のカンファレンスに松本執事と共に出席しました。このカンファレンスは数年前からNC州では持たれており、テキサスや他州でも開催されています。メイン講師はあの「神を体験する」の著者ヘンリー・ブッラカビー博士です。心を探られる霊的ムーブメントのカンファレンスです。千人あまりが入れる会場はほとんど満席で、牧師や教会のスタッフの参加も多くありました。プログラムは、聖歌隊の讃美に始まる最初から最後まで霊的ムーブメントが集会をおおい、神への告白と祈りに導かれる集会でした。そして恵みだったことは、先頭に立つ神の祭司である牧師たちの為に、多くの方々が真剣に手をおいて祈ってくださったことです。私たちの内側の渇きを満たすことの出来る方は聖霊さまです。こ御方に心を開いて、神の御心を知り、御心を生きる者へと導いていただきましょう。このカンファレンスは教会の兄姉にも体験していただきたいと思い、集会のメッセージをDVDでコンベンションから送っていただけるように手配しました。ご期待ください。
今日は先週に引き続いて、信仰について一歩押し進んで学びたいと思います。そして、この箇所を通して「信仰の一線を越えて前進する者へ」と主が招いておられることを、知ってほしいと願っています。 新約聖書の恵みの時代に、神によって選ばれ召された私たちクリスチャンは、旧約聖書の祭司と同じように神に仕える者です。ルターはキリスト者のことを「万人祭司」と呼びましたが、まさに私たちは祭司であります。新約において、私たちクリスチャンが、神の祭司であうると告げられているからです。使徒ペテロは言いました。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(Uペテロ2章9節)
使徒ヨハネも、「また、(キリストは)、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。」(黙示1章6節)
と言っています。したがって、私たちは、レビ族のように神に仕えた祭司であって、一般のイスラエル人ではなく、むしろ幕屋で神の仕えている祭司たちなのです。
イスラエル人にとって、聖なる神はある意味で遠い存在でした。幕屋の入り口まで近づくことは許されていますが、生ける神のご臨在される聖なる神との交わりは、幕屋の中で行なわれており、彼らはそこには入ることができませんでした。けれども、祭司は、神がおられる聖所の中にまで入ることが出来ました。そして、今、キリストにつながれた者となった私たちも、その特権に預かるようになったのです。神と交わることが許されたのです。
神の御霊は、私たちの体をご自分の住まいとされています。使徒パウロが言いました。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Tコリント3章16節)
そして、イエス様は、私たちとの交わりについてこう言われました。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」(ヨハネの福音書6章56節)
イエス様が私のうちにおり、私もイエス様のうちにいます。このような霊による深い交わりを私たちは神と持っているのです。
さて、このことを念頭において、今日のみことばから信仰のチャレンジを受けたいと思います。
先にお読みいただいた御ことばに戻りますが、40年に渡る「不毛」としか言いようのない旅路を経て、ようやくイスラエルの民は「約束の地」カナンを目前とする地域に辿り着くことができました。ところが彼らの前に横たわるのは、雪解けで水嵩の増したヨルダン川の激しい流れだったのです。「約束の地」はすぐそこにあるのに、このヨルダン川の深く激しい流れを渡ることは、とても難しいことのように思われたのでした。
この時の直前までイスラエルの民を率いてきた指導者モーセは、カナンに入ることなく天に召されてしまいました。モーセは思わず「主よ、なぜですか。なぜここまで来て、わたしの命は取り去られなければならないのでしょうか」と神に訴えました。しかし神は、モーセの後継者として立てた新しい指導者であるヨシュアを通して語りました。「主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、水がせき止められヨルダン川の水は壁のように立つであろう」。その言葉を信じたイスラエルの民が、「契約の箱」を担いだ12人の祭司たち(神の民を代表する人たち)の後に続いた時、神のことばの通りヨルダン川の水は遥か先でせき止められ、イスラエルはヨルダン川の激流をものともせずに向こう岸に辿りつくことができました。かつて奴隷とされていたエジプトから脱出する時も、神は紅海の葦の海を真っ二つに割られてイスラエルを進ませました。ここにおいても、指導者ヨシュアを通して「エジプトから救い出して新しい土地へと導いて行く」という神の約束が、40年経っても有効であることが示されたのです。イスラエルの民は再び、「神は、変わることなく我らと共にある」という確信を与えられたのです。「契約の箱」が先に進むということは、神が先に進むということです。彼らは祭司たちが担いだ「契約の箱」に、神の確かな臨在を見、主が先立たれることを確信したのです。
しかしながら、イスラエルの民の先頭に立たされた箱を担ぐ祭司たちはどうだったのでしょうか。ヨルダン川を前にして、神と人との仲立ちとなる祭司ですから、「約束の地を与える」という神の約束を信じていましたが、雪解けで水かさを増した激しい流れのヨルダン川に歩みを進めていかなければならない彼らは、イスラエルの他の人々よりも激しい葛藤を抱えていたのではないでしょうか。他のイスラエルの民が、水の干上がった渇いた川底を歩いたのに対し、この祭司たちは実際に川の水に足を浸しているのです。
この祭司たちこそ、ヨルダン川の激しい流れの、人では太刀打ちできないような現実に直面させられた人々でした。そして彼らには、「神に仕え、神の前に立つ民の代表」という立場や責任においても、神の導きに信頼しないわけにはいかなかったのです。水がせき止められて壁のように立ち上がる、という神の言葉が、もし実現しなかったらどうなるか。仮に神の言葉が実現しなかったとしても、彼らはその激流に押し流されるままにならなければならなかったわけです。このように 「神への信頼」とは、彼ら祭司たちにとっては命がけのものでした。 祭司たちが命がけで一歩を踏み出しヨルダン川に入り込んだ時、神はその力を示されました。水は遥か遠くでせき止められ、民の全てが安全に、喜びをもって神を称えながら、不可能と思われた渡河を果たしたのです。祭司であるが故に、民の代表として命がけの信仰を神に示したその一歩が、民に神の偉大さを示すものとして用いられたのでした。
祭司たちは川の中央に立ち止まり、民全体が渡り終えるまで待ち続けました。そのように教会は、民に先だって希望の実現に一歩を踏み出して行くことと、民全体が希望の実現に辿り着くまでそのただ中にとどまり続けることです。また、それはまさに神と人との仲立ちとして現われたキリストの姿であり、そのキリストのからだとして立てられた教会の目指すべき姿であるのです。
私たちもの現実もまた、激動の世界のただ中に立たされています。日常的に苦難に苛まれている人もあります。突発的な患難に立ち向かわなければならない人もあるかも知れません。しかし、神に仕える献身の誓いを立てた私たちには、後戻りは許されません。恐れを乗り越えて一歩を踏み出すように招かれているからです。そしてその一歩が祝されて大いなる力が示されたとしても、人々に先んじてそこへ急ぐことも許されていません。民の全てに神の恵みが行き渡るまで、その場を動くことは許されていないのです。このような歩みに必要とされているのは、ただひとつ「勇気ある信仰」です。それも、神に全てを委ねる「全たき信頼」なのです。全てを神に委ねて進み出す「信頼」と、全てを神に委ねてとどまる「勇気ある信仰」なのです。これは「ただ神のみを全たき信頼する信仰」によって可能となるのです。
今、21世紀に生きる私たちは激動の時代に生きています。神の日時計が終末に向かって動き出した激動の時代からこそ、新しい一歩が求められています。それは、ただ信仰によって可能となる一歩であり、この時代から逃れるための一歩ではありません。
私たちの世界は「これまで一度も通ったことのない道」(4節)にいます。それは未踏の道というだけではありません。人間の力(肉のままの人間)によっては切り拓くことのできない道ということです。そしてそこには、人の歩みを押し止めるヨルダン川が横たわっているのです。
私たち一人一人の人生においても、信仰を告白し洗礼を決意する時にこのヨルダン川は現れます。また、私たちが地上の歩みを歩み終える時もです。聖書は、どのようにしてヨルダン川を渡って行けと言っておられるのでしょうか。それはただ一つ「先立つ主の御ことばの後に続け」ということです。皆さんは「主の御ことば」に従って行く覚悟が出来ておられるでしょうか。それは「狭い門」です。しかし、唯一「いのちに至る道」です。あなたは「キリストのいのちに預かる者」として召されたのです。
私たちの前に先立ちたもうのは主イエス・キリストです。主は「私は道であり、真理であり、命である」と言われました。主が一度も通ったことのない道は存在しません。主は神へと至る道そのものです。あなたがヨルダン川を渡る時、その主が共に歩んでくださるのです。
このヨルダン川は、かつてイスラエルが紅海を渡るときにできなかったことをやり直すところです。すなわち、自分が罪に対して死んでいるとみなし、キリストに生きていただくようにすることです。自分が何かをしようとしても達成できず、敗北感を味わっているのであれば、そこで「まだ自分を生かしている自分(肉に支配されている自己)」を発見することでしょう。それは、ご聖霊が、自分で取り繕うとする自分と、自分のうちで生きて働いておられるキリストを切り離そうとされているからです。自分が完全に主に委ねて「主よ、私には何もできません。私はただ、あなたにお委ねします。」と祈ることができるとき、自分ではなくキリストに生きていただくことができます。今日、先だつ主の御ことばに従って信仰の歩みを踏み出していこうではありませんか。
信仰の一歩を、神への全たき信頼によって歩みだすことが出来るようお祈りいたします。
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