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[新改訳] ヨハネの福音書4章46〜54節 4:46
イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。 今日はヨハネの福音書に記されている、イエス様の行われた第2の奇跡から学びましょう。ヨハネの福音書では、奇跡という言葉を使わないで「しるし」ということばを用いています。「しるし」はギリシャ語で「セイメイオン」と言って「何かを示す」という言葉からきています。ですから、この奇跡を通してイエス様がなされたこの奇跡がどんな「しるし」であったのか、何を示そうとされたのかを知ることが目的です。「イエスのことば」に信頼し、そこにあなたの信仰の土台を据えて生きることこそ、イエス様を救い主と信じるキリスト者の生き方であります。ですから、今日のみことばを通して、皆さんの信仰の土台がどこに置かれているのか点検して、キリストとの正しい信頼関係を回復していただくことが願いです。 信仰において警戒し心すべき点は、形だけあって命がないということです。信じているつもりというのは意味がありません。たとえばプロサッカー選手にとって、その選手にどれほど素質があっても、試合という実践の場でその力が発揮できないなら、どうすることもできません。信仰も同じで、いくら信じていると言っても、日常生活の場でその信仰が生きて働かない限り、それは気休めにも等しいことなのです。 キリスト者として、私たちが人格形成をしていく上で、最も大切なことの一つが信仰です。それは神に対する信頼関係ですし、そこに土台をおいて、人と人との間における信頼関係を築いていくことです。もうひとつ大切なことは、あなた自身が自分を信頼しているかということです。人は決して孤立して生きていけません。関係の中でいかされていくわけです。 皆さんはキリスト教とは何ですか?と問われたらなんと答えますか。 ある人はこのように答えました。 「キリスト教は、一言で言えば『関係の宗教』です。つまり、あなたと神様の関係はいかがですか?あなたとあなたのまわりの人々との関係はいかかがですか?ということが問われ続けるのですよ。」 考えさせられることばです。 聖書の発想からは、「自分さえ・・・・・ならいい」というようなことは決して出て来ません。 皆さんは神との間に信頼関係は築いておられますか? 教会の中で、あるいは教会の外で人々と信頼関係を築いておられますか? 築いているか、いないかは必ずことばやと態度によって外に現れてきます。 さて、ヨハネの福音書1章1節には「はじめに言葉があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と記されています。神であるイエス様の特徴は、「行いと言葉が完全に一致している」ということです。 そういうわけで、今日の聖書箇所は、私たちに信仰の出発点を教えているのです。 ここでの登場人物は、この地方を治めていましたヘロデ・アンテパスに仕えていた王室の役人です。その息子が重病になりました。彼は、かかりつけの医者に行きましたが、全く良くならないのです。今や万策つきて途方に暮れていたのです。そんな時、イエス様のうわさを聞いたのでしょう。彼は、カペナウムからカナまで急いで行きました。なんとおよそ32キロの道のりです。今の時代とは違って車などありません。 彼が訪ね求めてきたイエス様は大工の子として育ちました。その大工のところに地方の役人がわざわざ出向いていったのです。今で言ってみれば、巡回伝道者のように神様に召されて福音を宣べ伝えている人でした。彼は、王室の役人として立派な教育を受けていたでしょう。たぶんは彼はユダヤ人ではなく異邦人であったと思われます。彼はキリストのもとに出かけるまでに、いくつかのことを捨てる必要がありました。まず自分の自尊心、自分の誇り、他人の思惑や、他人からの目・・・・。 私たちは、いろいろなことを気にするでしょう。イエス様に祈るなんてできない、私の祈りを他の人が聞いたら笑うのではないか?いろいろな目が気になるわけです。 この王室の役人は、息子の病の回復のために、なりふり構わずイエス様のもとに出かけていったのです。信仰に生きることは、自分のいままでの経歴や、名誉や、功績からくる自尊心を捨てることから始まるのです。 イエス様はなぜこの言葉を言ったのでしょう。大切なことをここから学んでください。 あなたがたは見なければ信じない、とイエス様は言われたのですね。どういうことかと言えば、目の前の変化、具体的な変化を見なければ、受け入れようとしないかたくなな心を指摘したのです。 十人のらい病人に言われた言葉は「祭司に見せなさい」でした(ルカ17章1〜10節)。そのとき、彼らが見ていたのものは何だったでしょうか。以前と全く変わらない自分の姿です。 「あなたは、本当に私を神の子キリストだと信じますか。」とあなたの心の深いところをさぐられるのです。 ここで主は、私たちの信仰について二つのことを求められます。 第一に、イエス様は、あなたの信仰の姿勢をごらんになるということです。 第二に、イエス様は、ご自分が語られた言葉に従うことを求められます。 私たちが礼拝から家に帰っていくとき、与えられるものは「聖書の言葉」です。新興宗教のような、霊権あらたかな何かの水を持ち帰ったわけではありません。お守りやお札も持ち帰りませんでした。イエス様がふれた物を持ち帰ったわけでもありません。ただ聖書の言葉を持ち帰ったのです。 王室の役人はイエスが言われた言葉を信じて、帰途についたのです。ここに、彼のイエス様の言葉に対する信仰の姿があります。 時として、私たちは、神様を自分の使い走りをするしもべのように考えます。「神はこうすべきだ!」自分で方法まで決めてしまうのです。自分の利得と考えて神様を利用し、そして自分の思い通りに事が運ばなかったり、問題が解決しなかったりすると、いとも簡単にイエス様から離れ去っていきます。しかし、主の前にへりくだらなければ、神様の祝福を受けることはできません。神様の言葉に従って踏み出すことなしに、人生を前向きに生きていけないのです。 へブル人への手紙11章1、2節に 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」とあるとおりです。 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでるひとつひとつの言葉による」(マタイ4章4節)とイエス様は言われました。人が生きるためには、パンは必要です。しかし、それだけでは不十分なのですと。人は神様が語られる、聖書が語ることばを信頼して生きることなのだと。 「神様はあなたを愛している」ことを本当に知ったなら、そのことばに信頼し、愛された者として肩の力を抜いて生きることができるようになってきます。 聖書は「主に仕えなさい」と言われます。 そこで私たちは、聖書から「主に仕えるとは何か」を生活の中で見いだしていきます。 「あなたの罪は赦されました」と主は宣言されます。 それ故、私たちは過去を振り返るものではなく、赦された罪人して神様を見上げていきます。そして他の人を赦すことを学んでいくのです。 また、神の言葉に生きるということは、主の愛と恵みのことばを発していくということでもあります。 日本に行くとファーストフードの店員が良く訓練されていると思わされます。お客さんに対するサービスという点では、日本は世界でも1、2に入るのではないかと思います。私たちがそのことに慣れすぎていて、海外でのサービスに不満に思ってしまうこともあるのですが・・・・。たとえば、マクドナルドで、注文をすると店員は最後にもう一言「チーズバーガーとチキンナゲットですね。ポテトはいかがですか?」といいます。この最後の一言で、売り上げが相当違うそうです。それと同じように、神様の恵みの約束、祝福の約束のことばを繰り返し発していくのです。 私たちは、お互いに祝福のことばを語り合っているでしょうか。 もし、私たちが自分自身を主に明け渡すことなしに、なお肉(古い自分)に生きているなら、私たちの頭には批判シートがたくさんあって、いかに人の欠点を見つけようか、教会の欠点を見つけようかと周りの批判ばかりします。しかし、主は「あなたは、どうですか。」、「あなたは、目の中にある梁をまず取り除きなさい」と言われるのです。肉は決して神に従うことはできないのです。 私たちは主の言葉を信頼しているなら、主の恵みの言葉を発するものとなりましょう。だからこそ、見て信じる信仰の弱さをイエス様は知っていました。それで、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」とまず言われたのです。しかし、この役人は、イエス様の言葉に信頼しました。 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。とあります。 この後、家族がこぞって「イエス様が救い主」であることを信じました。 最初に言ったように、信仰とは、神様との関係を正常化するものです。それとともに、あなたとあなたのまわりの関係にも影響を与えるのです。イエス様の語る聖書の言葉を受け入れ、生きる事を主は求めておられます。主イエス様は、あなたを生かし、励まし、慰め、罪を赦し、清めて下さるからです。主の言葉に信頼するとき、あなたの人生そのものが奇跡となるでしょう。 今日も主の御言葉に生かされ、また祝福のことばをひとりひとりが発する存在とされていきましょう。 「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」(民数記6章24節〜26節) |