聖書(神のみことば)と聖霊の力

  箴言 4章10〜27節[新改訳聖書] 
4:10 わが子よ。聞け。私の言うことを受け入れよ。そうすれば、あなたのいのちの年は多くなる。
4:11 私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。
4:12 あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走るときにも、つまずくことはない。
4:13 訓戒を堅く握って、手放すな。それを見守れ。それはあなたのいのちだから。
4:14 悪者どもの道にはいるな。悪人たちの道を歩むな。
4:15 それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。
4:16 彼らは悪を行なわなければ、眠ることができず、人をつまずかせなければ、眠りが得られない。
4:17 彼らは不義のパンを食べ、暴虐の酒を飲むからだ。
4:18 義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。
4:19 悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない。
4:20 わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。
4:21 それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。
4:22 見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。
4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
4:24 偽りを言う口をあなたから取り除き、曲がったことを言うくちびるをあなたから切り離せ。
4:25 あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。
4:26 あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。

4:27 右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。

聖書(Bible)はギリシャ語でビブロスといいまが、これは「本の中の本」という意味です。「本の中の本」であっても、開かれなければただの本です。しかし、ひとたび聖書が開かれ、聖書が語り出す言葉に耳を傾ける時に、聖書はあふれるばかりの言葉を私たちに語りかけ、福音の真理を示してくれます。神は今も後も聖書を通して私たちに語りかけられ、みことばの光に触れるとき確かな救いへと導いてくださいます。聖書を開く時に大切なことは「主よ、お語りください」という少年サムエルのような純粋な渇きです。

山上の説教での「心の貧しい者」とは、神の前に自分のありのままの状態を告白し、神に渇きを持って慕う霊的な乞食のことです。そのような渇きが神に届き答えられるのです。「求めなさい、そうすれば与えられる」とは慕い求め続ける魂の叫びに対する神からの応答です

神の言葉として聖書を読むためには、聖霊の導きが必要です。聖霊に導かれて読まなければ、聖書の真理を知ることは出来ません。何故なら、聖書は人によって記録されたものではあっても、神さまの導き、つまり聖霊の導きによって書かれたからです。救い主イエス・キリストを証しし、福音の真理を示し、神について、救いについて、全き知識を私たちに与えてくれるのは聖書だけなのです。

こんな話を聞いたことがあります。

ある時、聖書を売り歩いている人が人里離れた峠道で山賊に襲われました。山賊は森の奥深くに聖書の販売人を連れ込み、暖をとるために火をおこさせ、「薪代わりに売り物の聖書を火にくべろ」と命令します。聖書販売人は「火にくべる前に聖書を拾い読みしたい」と願い出て、一冊の聖書から詩篇23編を読みます。そしてまた別の聖書から、ルカの福音書10章の良きサマリヤ人の話、マタイの福音書の山上の説教、そして別の聖書からコリント人への第一の手紙13章の愛についての勧めと、持っていたすべての聖書から拾い読みしていきます。山賊は「これはなかなか面白い本だ。これをオレによこせ」と聖書販売人の売り物の聖書をすべて持って闇の中に消えていったのです。そして数年後、山賊がまた例の淋しい峠道に現れるのです。しかし今度は山賊としてではなく、伝道者として現れるのです。

 この山賊は自分の罪ということを知り、そして罪の赦しということを知ります。どのようにして知ったのでしょうか? 聖書を開いたからです。聖書はそれを開いた時に、みことばが開いた人自身の罪深い姿が映し出します。しかし、罪を映し出す鏡の働きしか聖書がしないのだったならば、それは絶望でしかありません。鏡には救いようのない罪の固まりの姿しか映っていないのです。しかし、聖書の中に主イエス・キリストを発見した時に、救いようのない罪人のために十字架にかかってくださったことを知り、罪が赦されているのだということを知り、まことの救いを知ることができるのです。

 「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(テモテへの第二の手紙 3:16)

聖書は、持っているだけで開かなければ自分の力となることはありません。というよりも、開かなければ聖書自身が力を発揮することはないのです。しかし、ひとたび聖書が開かれ、聖書が語り出す言葉に耳を傾ける時に、あふれるばかりの言葉を私たちに語りかけ、限りない力を発揮します。
 
 ユダヤ人の家庭では子供が五歳になった時から、律法の学びを始めてユダヤ教(旧約聖書を学ぶ)信仰教育を行います。これは、子供が神の賜物と考えて、神の言葉の教育を特に大切にしたからです。テモテもそんな家庭で信仰を育まれました。テモテの父はギリシャ人でしたが、ユダヤ人であったテモテの母ユニケと祖母ロイスから信仰教育を受け、幼い頃から聖書に親しんでいました。このときテモテが幼い頃から親しんでいた聖書は旧約聖書のことです。しかし、旧約聖書だけであっても聖書に親しんでいたことで、テモテは主イエス・キリストのことをよく知ることができるようになりました。それは、イエス・キリストを旧約聖書の中に発見した時に、旧約聖書の律法が人間を縛り付ける掟ではなくなるからです。神さまに従う生活態度についての真の知識を与えるものとなるのです。パウロがローマ人への手紙などで語るように、イエス・キリストに対する信仰を持って旧約聖書を読む時に、「救いに至る神の知恵」を私たちに与えてくれるのです。

教会の礎を築いた教会の父といわれる教父に、アウグスティヌスという人がいます。アウグスティヌスの母は、とても信仰深い母親でした。彼はこの母親から「母の乳と共にキリストの名を吸い込んだ」という影響を受けました。
 彼は若くして弁論術の教授になりますが、言葉の専門家である彼にとっては、聖書の文体があまりにも簡単すぎたため聖書を開いて読むことはしませんでした。
 一方でアウグスティヌスはかなり乱れた生活を送っていました。盗みをするとどきどきするので人のものを盗むこともしました。ある女性を愛するのですが、その女性とは家柄の違いから結婚できないまま同棲生活を続け子供までできます。でもこの女性とは結局別れて別の女性と婚約しますが、婚約期間中に別の女性と関係を持ちます。

 このような生活をしていることへの罪の意識もあって、マニ教というこの私たちが生きている世界のすべてを否定する誤った教えを信じるようになってしまいます。しかし、マニ教を信じることによっても希望は見つけられませんでした。アウグスティヌスは、苦しみの中でもだえ、もう死ぬしかないと思っていたその時、彼がいた家の外から子どもの声で「とって読みなさい。とって読みなさい」という声が聞こえてきたのです。もちろん、子供の遊び歌ですから、彼に向かって子供が呼びかけたのではありません。しかし、アウグスティヌスにとっては神が子供を通して彼に働きかけたのだと悟るのです。「そうだ聖書を読むのだ」ということに気がついて、同室の友人が持っていた聖書を手にとって読みます。
 
聖書を開くとこう書いてありました。


「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ人への手紙13:13-14)

その時「その句を読み終えるや、いなや、たちまち、心は、光のようなものに、みたされて、しずまり、おおっていた闇も、すっかりかき消されて、もはや、何の疑いも残らなかった」と回心をするのです。その後彼は教会の指導者となって人々のキリスト愛と恵み、救いがどれほど完全ですばらしいものであるかを証しするように変えられていきます。

優秀だったアウグスティヌスは、聖書が単純すぎてつまらなく感じて読みませんでした。しかし、読まれないと聖書は力を発揮することはありません。聖書は開かれて読んだときに初めて聖書になるのです。

「しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
  神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」(テトスへの手紙 3章4〜6節)

神を心から慕い求める時に、聖霊は私たちの心の目を開き、キリストの福音を私たちに啓示してくださいます。「聖霊は力と愛と慎みの霊」です。聖霊はキリストの心を私たちのうちにもたらし、神の人への変えてくださいます。

最後に、聖霊によって変えられた証しの告白である「中国のある伝道者の詩」を紹介します。あなたが正直な自分の真実な姿をありのまま神様の前に明らかにし、渇きをもってみことばを慕い求めることが出来るようにお祈りいたします。その時、聖霊はあなたにみことばの真理をあきらかにし、あなたを新生と更新との洗いをもって救ってくださる(キリストのものとしてくださる)ことを体験なさるでしょう。

中国のある伝道者の詩

かつては 自分を表すことが好きだった
今は キリストのうちに隠されたいと願う

かつては 人にほめられることを求めていた
今は キリストに喜ばれたいと祈る

かつては 奉仕の成果を求めていた
今は 主のみこころが成し遂げられることを喜ぶ

かつては 知恵によってみことばを語っていた
今は 聖霊のみ力に頼る

かつては 思いのままに人をさばいていた
今は キリストにあって自らを顧みる

かつては 奉仕の忙しさを喜んでいた
今は 耐え忍んで待つことを学んでいる

かつては 人にほめられる絶妙なみことばの解き明かしを求めた
今は ただ 御霊の光に照らされることを喜んでいる

かつては経験によって語った
今は 聖霊の導きによって語ろうとしている

アウグスティヌス
アウグスティヌス (Augustinus、英:Augustine of Hippo、354年-430年)は、キリスト教のラテン教父。ローマ・カトリック教会および東方正教会聖人日本ハリストス正教会では福アウグスティンと呼ばれる。
キリスト教徒の母モニカと異教徒の父パトリキウスの子として北アフリカのタガステに生まれる。若い頃から弁論術の勉強をし、まずタガステに近いカルタゴ、のちにイタリアで弁論術を学ぶ。キリスト教に回心する前は、一時期マニ教に信奉していたが、その後プラトン主義を知り、マニ教に距離をおくようになる。イタリアで弁論術の教師をするうち、アンブロシウスおよび母モニカの影響によってキリスト教徒となる。のち北アフリカの都市ヒッポの司教に叙階される。ヴァンダル人にヒッポが包囲された中、熱病にかかりその地で没した。 主要著書: 『告白』、『神の国』 、『ヨハネ福音書注解』 、『三位一体論』など多数                   フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』より

マニ教
マニ教 (Manichaeism、摩尼教) は、かつて存在していた世界宗教ササン朝ペルシャマニ(210年-275年ごろ)が開祖である。 24才の時に啓示をうけ、開教した。
教義

当時存在した宗教を、特に、ゾロアスター教キリスト教グノーシス主義、さらに仏教道教からも影響を受けている。その結果、教義は非常に複雑である。基本的には、善=光明、悪=暗黒という二元的自然観である。
歴史
マニがササン朝シャープール1世に重用されるとともにペルシャを中心に信者を増やしたが、その後ササン朝がゾロアスター教を国教と定めるとともに迫害された。 このため以後信者はペルシャ国外で増加し、ローマがキリスト教を国教とする前は、マニ教はローマ全域にまで拡大していた。また、アジアにも拡大し、ウイグルでは国教となり、まで広く普及していた。 このように、スペインから中国まで大陸を横断する世界宗教であった。マニ教は、過去に興隆したが現在では滅亡した(信者が消滅した)宗教のうちで、代表的なものである。
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