「あなたの信仰の通りになる」第二 列王記 6章8〜23節、マタイによる福音書 9章27〜31節

今日のタイトルは「あなたの信仰のとおりになる」としました。それでは、聖書を読んでみましょう。

  [新改訳] 列王記第二6章8〜23節     

6:8 アラムの王がイスラエルと戦っているとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」
6:9 そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」
6:10 そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。
6:11 このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」
6:12 すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」
6:13 王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる。」という知らせが王にもたらされた。
6:14 そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。
6:15 神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。
6:16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。
6:17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
6:18 アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。
6:19 エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。
6:20 彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真中に来ていた。
6:21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」
6:22 エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
6:23 そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。

[新改訳]  マタイの福音書 9章27〜31節
9:27 イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。
9:28 家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。
9:29 そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。
9:30 すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」と言われた。
9:31 ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。


 イエス様を信じる信仰とはいったい、どのようなものであるのか?そして、どのような信仰が人生を勝利して歩むことができるのか?旧約と新約の二つの聖書箇所から学んでいきたいと思います。

カナダのトロント在住の日本人クリスチャンの姉がこのような証しを書いておられました。

タイトルは「信仰のスイッチ」となっています。

「あなたの信仰のスイッチはONになっていますか?」 

日曜日の礼拝メッセージでとても心に残った言葉です。

牧師のお知り合いの方がHOME DEPOT(ホームセンター)でChain sawを買ったそうです。お店の方の話しでは、1時間で4本の木が切れます。と言うことで、喜んで買って帰り、さっそく使ったそうです。しかし、彼は丸1日かかって、やっと1本切れただけだったのです。お店に持って行き、店員さんが確認しました。店員さんがChain sawのコードを引っ張ると、”ブルブルブル”とすごい音。「何ですかその音?」と彼。実は、彼は電動のこぎりのスイッチを入れずに使っていたのです。

私たちの信仰のスイッチはイエスさまからきます。そして、いつもその信仰のスイッチをONにしておかなければなりません。

 それでは、信仰のスイッチをONにするとはどう言うことなのでしょうか?

「イエスさまならどうされるか?」「イエスさまはどう思われるか?」 いつもこのように考えることです。

「私はどうしたら良いのか?」「○○さんは、どう思うか?」などと考えているときは、私たちの信仰のスイッチはOFFになっています。

 私たちが祈るとき、聖書を読むときに、神様は知恵を与えて下さいます。そして、イエスさまならどうされるか?どう思われるか?と言うことを教えて下さいます。

 このメッセージを聞いたときに、「あぁ、私の信仰のスイッチはOFFになっていたな。」と心にズンときました。祈ってるし、聖書も読んでいるつもりだったけど、何か問題があったりした時に、いつも「私は何をしたらいいの!どうしたらいいの!」と考えていた私がいました。だからなお更解決するどころか、解決できないことで苦しくなっていたように思います。

 スイッチをONにして、これから祈り、聖書を読んでいこうと思いました。 

それでは、皆さんの信仰のスイッチをONにしてください。神のみことばに心を開いて耳を傾けましょう。

先ほど読んでいただいたマタイの福音書で、イエス様と癒された二人の盲人とのやりとりが記録されています。イエス様が二人の盲人の目を開かれたという癒しの奇跡です。また、第二列王記6章8〜23節以下にも、主なる神様によって目が開かれたり、閉ざされたりということが語られています。これは預言者エリシャの物語です。エリシャはエリヤの後継者であり、エリヤが背教の民を、信仰を回復するために用いられたのに対して、彼は主の恵みがどれほど大きなものでるかを示した生涯であるとも言えます。それは、聖霊に満たされた預言者エリシャを通して神を信じる者へ神がなしてくださる恵みの業です。それだけではなく、神に敵対する真の神を知らない民にたいしても恵み深くあられるのです。ここでも、主イエス様の救い主としての型を見ることができます。

聖書に戻りますが、エリシャとその召使のいた町が、ある時、敵の大軍によって包囲されてしまいました。その軍勢を見て召使は「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」とあわてふためいていました。そこでエリシャが、「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」と祈ると、彼の目が開かれました。すると彼の目に、火の馬と戦車という神の軍勢がエリシャを囲んで守っているのが見えたのです。さらにエリシャは敵の軍勢の目をくらましてくださいと祈りました。すると敵の大軍はエリシャを見てもそれと気づかず、彼らはエリシャによってサマリヤまで連れてこられました。そこでエリシャがもう一度、「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」と祈ると、彼らは自分たちがイスラエルの王の前に連れて来られていたことに気づいたのです。

イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに、「わたしの父よ、わたしが打ち殺しましょうか、打ち殺しましょうか」と言ったが、エリシャは答えた。「打ち殺してはならない。あなたは捕虜とした者を剣と弓で打ち殺すのか。彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主君のもとに行かせなさい。」そこで王は彼らのために大宴会を催した。彼らは食べて飲んだ後、自分たちの主君のもとに帰って行った。アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった。(62123)

神は恵みと憐れみに満ちた方ですね。私はこの箇所を読むと、いつもイエス様のことが浮かんできます。聖霊に満たされると、そこには主ご自身を見るのだなあと。

今日取り上げた聖書の箇所は、どちらも「目が開かれた」ことが記録されています。ここでの目は「霊の目、つまり信仰による目」が神によって開かれることがテーマです。

このように、神様が目を開いて下さると、肉体の目に普通には見えないものまで見えてくるし、神様が目を閉ざされると、肉体の目は見えていても、ものを正しく見ることができなくなります。盲目と変わらないということです。

初代教会が目が開かれたのは、ペンンテコステからです。エリシャの召使が目を開かれ、火の馬と戦車が自分たちを囲んで守っているのを見たように、肉体の目に見えていることを越えた神様の現実に目を開かれたのです。ペンンテコステは聖霊によって目が開かれ、宣教が始まり、教会が生まれました。
 
 復活した主イエス様を肉体の目で見ただけで伝道が始まったのではなく、聖霊なる神様が信じる人々の上に下られ、御霊によって満たされた信徒によって教会が生まれことは、とても大切な真理です。
 私たちは、イエス・キリストをこの目で見たことはありません。もしも教会が、イエス様を肉の目で見た体験によって誕生したものであるならば、私たちがそこに加わることは不可能でした。しかし教会は弟子たちが聖霊によって目を開かれたことによって誕生した群れです。聖霊によって目を開かれ、肉の目によっては見えなかった神様の現実を体験し、教会は主なる聖霊の働きによって歩んできたのです。
 そのように、私たちも聖霊の働きを受けて教会に加わることができたのです。教会とは、聖霊によって目を開かれた者の群れなのです。

もういちど聖書に戻りますが、ここに出て来る二人の盲人は、イエス様によって目を開かれました。ここでは単に病気が癒される奇跡を語っているのではありません。イエス様は29節で「あなたがたの信仰のとおりになれ。」とい言われました。すると彼らの目が開かれたのです。ここでも主は信仰の出来事を扱っておられるのです。彼らは主イエス様に信仰を認められて、癒され目を開かれたのです。

ではこの二人の盲人は、どのような信仰を持っていたのでしょうか。彼らは、イエス様の一行に、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と言いながらついて来ました。イエス様と弟子たちはカペナウムの町におられます。そこで、ある指導者(会堂つかさ)の家で、死んでしまった娘を生き返らせるという大きな御業をなされました。そこから家に帰る途中で、死者の復活の奇跡を見聞きした多くの群衆たちがその周りにひしめいていました。そのような雑踏の中で、この二人の盲人は、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来たのです。
 
 実はマタイはこれと同じような話を、20章の終わりにも語っています。そこでも二人の盲人が、「主よ、私たちをあわれんでください。ダビデの子よと叫んだのです。その場面においては、周りの人々が彼らを叱って黙らせようとしたが、ますます大きな声で叫び続けた、と語られています。この9章においても、状況は同じだったでしょう。彼らは、何とかイエス様の耳に届くようにと、必死に憐れみを求めて叫びながら、手探りで後について来たのです。

 彼らはイエス様に「ダビデの子よ」と呼びかけています。これは「救い主」という意味です。当時、救い主は「ダビデの子」として来ると誰もが信じていました。彼らは、主イエス様こそ救い主であると信じて、このように呼びかけ、救いを求めたのです。主イエス様こそ約束されたダビデの子、救い主であると信じて、その憐れみを求めて叫び、ついて来る、その姿に、彼らの信仰を見ることができるかもしれません。
 
 しかしまた別の見方をすれば、彼らは、目が見えない苦しみの中で、とにかく自分たちを救ってくれそうな人にわらをも掴む思いですがっただけだったとも言えるでしょう。イエス様が、いろいろな病気の人を癒し、死んだ人を復活させさえした、そのことを聞いた彼らは、この人ならば、自分たちを見えるようにしてくれるかもしれないと思ったのです。
 救い主が来れば、力ある癒しの業を行って、苦しんでいる者たちを救って下さると信じられていたのです。ですから、イエス様をはっきりと信じたと言うよりも、そういう期待を込めて彼らは「ダビデの子よ」と呼んだのではないでしょうか。つまり、この27節の彼らの姿に、どれだけ本当に「信仰」と呼べるものがあるのか、それは疑問であると思うのです。
 
 イエス様も叫びながらついて来る彼らの声には全く反応をなさっておられません。イエス様が彼らと向き合われるのは、28節にあるように、家に入ってからです。このことはイエス様が、多くの人々が押し迫っている雑踏の中ではなく、家の中の落ち着いた所で彼らと向かい合おうとしておられることを示しています。個人的に向き合われるのです。また同時に、ここでの癒しが、彼らのあの叫び求めに直接応える形で行われたのではない、ということをも示しています。

 家の中で初めてイエス様は彼らに語りかけられます。それは「わたしにそんなことができると信じるのか。」という問いでしかけでした。ここに「信じる」という言葉が出てきます。イエス様は彼らの信仰を問われたのです。「わたしにできると信じるのか」、「わたしが、あなたの目を開くことができると信じるのか」そう主イエスは問われたのです。この問いこそ、キリストであるイエス様が、私たち一人一人に向き合って語りかけておられる問いです。クリスチャンと呼ばれる人は、この問いをイエス様から受けた人であり、またクリスチャンであり続けるとは、この問いを受け続けていくことなのです。

「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫ぶことが信仰なのではありません。私たちはしばしば、そういう叫びに似た思いを持ちます。様々な苦しみや悲しみに直面する時、どうしたらよいかわからず途方に暮れてしまう時、「主よ、神よ、私を憐れんで下さい、イエス様、私を救って下さい」と願うのです。けれども主イエス・キリストとの本当の出会いは、そのように願っている私たちに、イエス様が、「わたしにできると信じるのか」と問うてこられ、その問いに対して私たちはどう答えるかにかかっています。「憐れんでください、助けてください」と願うことと、主にそれがお出来になると信じることとは別です。

 イエス様は、私たちのためらいがちな「そうです。主よ。」という「はい。そのとおりです」という精一杯のことばを受け止めて、それを私たちの信仰と呼んで下さるのです。「あなたがたの信じているとおりになるように」というみことばはそのような意味で語られています。彼らが発した「そうです。主よ。」を受けて、イエス様は、「あなたがたは私を信じている、私があなたがたの目を開くことができることを信じている。あなたがたの信仰のとおりになるように」と言って彼らの目を開いて下さったのです。
 
 ですからこの「あなたがたの信仰のとおりになれ。」というみことばは、本当に信じれば何でも思った通りになる、ということではありません。この言葉はそんなふうに信仰の持つ力に注目して語られているのではなくて、イエス様が、私たちの弱い信仰とは呼べないような思いを、信仰として受け止めて、それに基づいて救いの御業を行って下さる方であるという、神の恵みを語っているのです。長い間婦人病で苦しんでおられた女性が、イエス様の衣の房にでも触ることができれば病気を癒してもらえるのではないかと思って、後ろからそっと触れた時「あなたの信仰があなたを救ったのです」と語られた同じ意味のみことばなのです。

 この二人の盲人はこのようにして目を開かれました。私たちが聖霊によって目を開かれる時にも、これと同じことが起るのです。私たちは、聖霊によって目を開いていただかなければならない者です。そうでないと、見るべきものが見えない者なのです。その私たちの姿は、あのエリシャの召使に似ています。肉体の目に見えているのは、敵の大軍に包囲されて、もうどうしようもない、自分はもう滅びるしかないという現実です。そういう苦しみの中で私たちは、あわてふためき、パニックに陥るのです。しかしその私たちには、見るべきものが見えていません。目が閉ざされてしまっているのです。本当に見るべきもの、目が開かれたならば見えてくることは、火の馬と戦車が自分たちを囲んで守っているということです。

 この二人の盲人が主に目を開かれた、その決定的な転機となったのは、「わたしにそんなことができると信じるのか。」という問いに対して彼らが「そうです。主よ。」と答えたことでした。それは先ほども申しましたように、彼らが強い立派な信仰を持っていた、ということではありません。「わたしにそんなことができると信じるのか。」という問いの前でたじたじとなり、言葉を失ってしまう現実は、彼らも私たちと変わるところはないのです。私たちも同じです。「わたしにできると信じるのか。」と問われれば、口ごもらざるを得ません。
 このような弱い、罪深い、力のない、また不信仰な者が、キリスト者となり教会の一員となって、神様に仕えて生きるなどということはとうてい考えられないことです。神様が自分のような罪深い、神様を裏切ってばかりいる、従い仕えるどころか自分のために利用することしかしていないような者を、愛して用いて下さるなどということはとうていあり得ないと私たちは思うのです。けれどもイエス様はそのような私たちから「はい、そうです。主よ」という答えを引き出そうとなさるのです。そのために、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。

 この二人の盲人たちは、イエス様の「わたしにそんなことができると信じるのか。」という問いかけに対して、「そうです。主よ。」と答えたことによって、目を開かれていきました。見えなかったものが見えるようになります。神様が私たちを愛して、御もとに招いていて下さり、恵みの御業のために用いて下さることが見えてくるのです。

 最後になりますが、キリストが私たちの内に生きられることとはどういうことなのかを、もう一度確認して、私たちの信仰を点検してみましょう。スイッチがONになっているか、OFFになっているかです。
 もう一箇所聖書を開いてみましょう。ローマ人への手紙6章1〜11節です。

 「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」

 クリスチャンの生活は、キリストのようになろうと試みることではありません。そのようなことは不可能です。あなたの古い性質を新しく変えようと努力しても、新しい性質であるキリストのいのちをまねることは出来ません。あなたがなすべきことは、常に古い自分に逆らって、あなたのすべての分野で神の御子イエス・キリストに心の王座を明け渡すことです。私たちは常に、今生きているのは、もはや自分のものではなく、キリストのものであることを思い起こしましょう。

 こんなふうに考えてみてください。

あなたはバスケットボールのすばらしいプレイヤーになりたいと思っていますが、特別に運動神経が優れているわけでもなく、体が特に丈夫でもありません。それでも一生懸命やってみようとします。つかれきるまで走ったり、パスをし、ロングシュートも試みます。しかし、どんなに努力しても十分ではありません。そして、やがてこれは自分には、無理なことだとわかってきます。

 そんな或る時、マイケル・ジョーダンのようなスーパー・プレイヤーがあなたのところへやって来て、不思議な提案をします。彼のもっているすばらしい力をあなたの体に移し入れ、試合についてのあらゆる知識もあなたの頭の中に入れようと申し出るのです。

 あなたは喜んで、その申し出を受け入れます。次の瞬間、あなたは試合に出ていて、これまでなかったように正確に、ボールをパスし、以前よりもずっと機敏に動けます。あなたの頭脳も試合の展開を追っていきます。チームのメンバーの位置も、誰にパスをしたら良いか、誰からパスを受け取り、どの瞬間にシュートしたらよいかも分かっています。シュートも正確にゴールに入ります。タイミングも全てわかります。観客はあなたを応援します。あなたは、プロ顔負けの試合をします。でも、あなたはそうしてそのような輝かしい試合ができるのか良く分かっています。あなたは、有名なバスケットボールy選手の力を移し入れたことを知っているので、決しておごることはありません。他の人たちがあなたを賞賛しても、あなたは、自分の力の本当の力の源を知っているのです。

 キリストはあなたのために、このバスケットボール選手のようなことをしてくださいます。しかし、そのようなキリストを選択することも、あなたが古い自分(肉)によって歩むこともあなたが選択するのです。

あなたが、キリストに今日も、明日も、永遠に自分の生活の主になっていただくために心の王座を譲らなくてはなりません。

生まれながらの私たちの性質は、神様の愛を頑なに拒もうとする壁があって、それが私たちの目を閉ざしています。その頑なな壁が取り除かれて、神様の愛に目を開かれ、それを受け入れる新しい世界が開けていきます。その最初の一歩となるのが、今日の「そうです、主よ。(はい、主よ)」という一言なのです。この一言を語ることができたなら、後はイエス様がそれを「あなたの信仰」と呼んで下さり、そこから豊かな恵みの御業を繰り広げていって下さるのです。その決定的な「そうです、主よ。(はい、主よ)」を、聖霊なる神が私たちに語らせて下さるように、切に祈り求めていきましょう。