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統計はその用いようによって、私たちの理解を身近なものにしてくれます。先日母教会のスタッフミーティングで、教会員の年齢層と来会者の年齢層との統計を見る機会がありました。思ったより意外なこともありましたが、統計によって教会の全体像の一部を垣間見れるのも確かです。FBCはRaleighのダウンタウンにあり、教会の設立は江戸時代の末期にあたるそうです。歴史のある教会です。ですから、何世代かの人たちが教会のメンバーにいます。全体的には年齢層は、比較的高いようです。 さて、日本では高齢化社会は益々進むと言われている昨今です。2000年の国税調査において、全国の65歳以上の老年人口が、15歳以下の年少人口を初めて上回りました。それによる15歳未満の人口はほぼ1,845万人、それに比べて65歳以上の高齢者の人口は2,227万人で多くなっています。このように、わが国の少子化、高齢化が年々進んでいることが明らかになったわけです。ですから、教会も現実のこととして、これらの人々への宣教を真剣に考えていかなければならないでしょう。 先週、母教会にあるバプテストの婦人会(WMUと呼ばれ7つのグループに分かれている)に招かれて、日本語集会の証しする機会がありました。私が招かれたWMU7のグループは高齢者の会です。この会には今回で呼ばれたのが2回目になります。もっとも宣教に興味をもって祈ってくださる群れの一つなのです。 ところで、老いは人生の秋だといわれます。人生の秋は、灰色だとも言われます。しかし、聖書には「白髪は輝く冠」(箴言16:31)とあります。神に従う者には、老いは、衰えの印ではなく栄光の象徴だと聖書は語ります。人は生まれた瞬間から、死に向かって歩き続けています。神に信頼を置くものは、栄光の冠をめざして、死に至るまで忠実に人生の山を登りつめていきます。あなたは、死を人生の頂点にできるでしょうか。とはいえ、現実には老いると体が弱くなり、しかも、高い山は険しく胸突き八丁を迎えます。また老いると、孤立と孤独の難問にぶつかります。寂しく、ぐちっぽくなるのは避けられないことです。過去や人と比べてわが身の不幸を嘆き、期待と現実のはざまで不幸・不満を漏らすことが多くなります。老いると自己本位の思いを強めやすいのです。 私たちは、老いの孤独に耐え、自分の中に他人の幸せを祈る心を宿らせ、人生の秋を美しさで彩ることはできないものでしょうか。それが出来るのです。私はアメリカに来て、そのようなクリスチャンと多く出会いその葬儀にも立ち会いました。希望のある栄光の老いた姿を確かにこの目で目撃しました。イザヤ書49章15節には次のような主のことばがあります。 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ書49:15)[新改訳] また、聖書の神は言われます。新改訳と新共同訳で紹介しましょう。 「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ書46:4) 「 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46:4)[新共同訳] なんと慰められることばでしょう。このような愛の神さまの約束を信じて、私たちも人生の秋を豊かに生きぬきたいものです。 もし世界が100人の村だったら 作者:Donella H
Meadows 翻訳者:なかのひろみ これを読むと、私たちは数少ない恵まれた地に住む者です。主がそれを許されたからです。ですから、素直に感謝し、神の約束を信じて積極的な人生を歩もうではありませんか。 今はインターネットの普及のお陰でメッセージを一度に世界中に発信することができます。希望のある、夢のある、愛のある、癒されるようなメッセージを伝えていきたいものです。主の祝福がありますように。 |