追突事故

 我が家は、昨日で、1年に3回も追突事故にあったことになる。このことはギネスブックになるかも・・・・。驚くと共に、「えっ、また」と思わず叫んでしまいたくなるような、信号待ちで停止している時の追突事故。3回ともバンパーだけで守られて感謝だった。2回は助手席に乗り合わせ、1回は自分が運転時に追突された娘は、以前の事故での鞭打ちがそのたびにぶり返し、痛みがあって、かわいそうな思いをさせている。しかし、その度に、自分も気をつけようと言い聞かせているようだ。

2回は2重追突の一番前、1回はブレーキを踏んだが間に合わずに追突されたものだ。そのうち2回は雨の日でどしゃぶりの時である。

交通事故は、加害者も被害者も被害者のようで、私が運転をしていた2回は若い男女で、警察には来ていただいたが被害届けは出さなかった。事故によって加害者の保険が高くなることを私たちも痛感していたし、車社会の中で事故はつきものだからだ。しかし何よりも、どんな時でも主の守りがあることは感謝してもしすぎることはない。本当に守られているのだ。

わたしも、以前にNashvilleのインターの合流点で、二台前の車が急停車し、ブレーキを踏んだが間に合わず追突したことがある。その時は後続の車がうまくよけてくれ、右車線の車に2重衝突されることから逃れられた。追突した相手の車はトラックで、バンパー擦り傷だけだったので、「何も目立った損傷はないので大丈夫」と言って届出はされず、私が自分の車だけを自賠責で治すことになった。それも以前の光穂の事故の修理をして1週間後の事だった。

 今回の追突の加害者は若い女性で、仕事帰りなのかレストランのユニフォームを着ておられたが、1週間前にモールで自分の車が追突された直後だった。続けての事故だったので、あまりのショックに泣いておられた。私たちも、先に追突された方も、気にしないで大丈夫だからといって別れた。追突した彼女への同情心もあって、事故調査に来られた婦人警官も切符は切らず、出来れば保険を使わずに対処された方が良いとのアドバイスだった。

この日は雹が降るほど激しい雨で、車から降りるだけで、靴の中までびしょぬれになるような大雨だった。ところが、その後、親子で楽しみにしていたヴァイオリニストのパールマンが演奏するガラコンサートに行く途中、空いっぱいに虹が出ていて、神様の契約を思い出した。事故の後の住んだ雨上がりの空気と虹とが心を晴れ晴れにしてくれた。

 聖書はクリスチャンになると、艱難や困難がなくなるとは言っていない。しかし、その中で主の守りがあることを悟らされ、今まで自分で生きていたように思っていた人生は、実は主の守りの中で生かされていることを知る。

 聖書は、「すべてのことに感謝しなさい。」という。苦難や困難の中で感謝を覚える時、そこに確かに主の臨在を体験する。同時に、後でこのことも私の人生に必要なことだった分かるようになる。

 マタイの福音書の中に「自分がしてもらいたいことは、人にもそのようにしなさい。」といわれる黄金律があるが、このことばも当時のユダヤ社会では「人にしてもらいたくないことは、自分もしなさんな。」というものだった。イエスは積極的に恵みを受けた者として、恵みを隣人に分かち合いなさいと勧めておられる。

 私たちクリスチャンは善にしろ、悪にしろ、私たちが人生で行った行為の刈り取りをさせられることを知っている。この世の移り変わる価値観に振り回されず、良いことに目を留めて実践したいものである。このことは主にあって初めて出来る、神からの賜物である。

 生かされていることを感謝できる人生は、その人の周りに喜びを与え、人の持っているやさしさを香らせる。