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「大きな失敗をした時は、誰が責めなくても、本人自身がいても立ってもいられぬほどに、自己を責めているものだ。もう二度とこんなことはするまいと、心から悔いているものだ。その上、人が責めるのは、これこそ過酷というものだ。生きる道さえ、閉ざしかねないことになる。」(三浦綾子著「私の赤い手帳」) 大人の事件でしたら、自分の犯した罪は自分で償わなければならないと思いますが、それがこどもだったらどうでしょう。まして、我が子であったら。 日本では今年の成人式で、新成人が記念式会場であばれた事件がありました。TVの報道を見ると、この事件は犯罪として市がその新成人を訴えたのですが、その謝罪に親が一緒について行っていました。日本では、帰国子女の男子生徒の大学入試によく母親がついて来ると聞きましたが(女子生徒は少ないようです)、ほとんど父親不在の家庭では母親との親子関係が密になるので、海外で長く滞在した家庭ほどこの傾向が強いことも頷けます。過保護といってしまえばそれまでですが、海外では日本語を話す場は家庭か日本語学校ぐらいしかないので、子供達の精神的成長が、変化の早い日本社会についていけなくなっており、親が心配することもわかります。 最近聞いた話ですが、子供が犯した失敗や事件のことを聞くと、以前は「まさかうちの子は」と思っていた親たちも、今では「ひょっとしたら、うちの子が」と思う親が増えてきているということです。親たちは我が子のことでさえ信頼を失ってきています。 昨年、FBCの母教会では、教会に来られている信徒が家庭で大きな事件を起こしました。まさか、教会でこのような事件が起こるとはというような事件でした。100年以上の歴史の中で、以前にこのような事件は1度あったきりです。しかも、同じ年に立て続けに2件もあったのです。どちらも夫が配偶者である妻に対して犯した事件でした。事件はTVや新聞で報道されました。すぐに、祈りのリクエストが教会の連絡網を通して伝えられました。スタッフも一致して、この事件に対して信徒や子供たちにどのように話していくか、注意深く知らされました。教会がどこに立っているかが問われるような事件でした。その時、様々な方々から励ましの手紙や電話が教会にあったと聞きます。 このどちらの家族にも子供たちがいます。もちろん教会に集っていました。事件の後、すぐに教会は家族のためのケアーを始めました。母親が突然いなくなり、父親は刑務所に留置されたのです。牧師やスタッフは、刑務所や家族を訪問し励まし続けています。子供たちの心の傷はどれほど大きなことでしょう。しかし、神の愛は心を癒していきます。教会の人々を通して、神の愛が届けられているのです。昨年のクリスマスで、その子供たちが聖歌隊の中でキャロルを歌っていた姿は、事件後どのように教会がこの家族と関わってきたかを物語っていました。 神様はこの事件を通して、教会に集う一人一人の信仰を問われたように思います。この事件の後、教会に真剣に集う人が増やされ、神に捧げる献金も増えていきました。何が一番大切であるかがわかったのです。 私たちは子供が小さいときから、愛することの見本を行動でしめさなければなりません。子供は親を鏡として成長していくのです。ですから、過ちを犯したときには優しく迎えてあげなければなりません。そうでないと、私たちも裁かれることになります。 確かに、子どもたちは叱られるべきことをします。しかし、愛を込めて叱るべきです。そして、慰められ、励まされることが必要です。もし、責めたり、叱ったり、冷ややかな視線を向けることだけに終始するならば、子どもたちは道をますますはずして行くか、あげくのはてには生きる道さえ閉ざしかねないことになります。そうなれば、苦しみに苦しみを上塗りして終わることになります。 私たちは「過去を赦し、現在をほめ、未来を励まし」て、将来に希望を抱いて歩めるようにしてあげなければならないのです。その為の知恵と愛は、神がくださるものなのです。 「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」(マタイ5章7節)新改訳 「 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6章14,15節)新共同訳 |