心温まるニュース(神がおいでになる場所)
2月7日の各社の新聞に、こんな記事があった。
京都府警九条署の京都市南区の同署山王交番に、7日午前10時ごろ、「試験会場を間違えた。何とかしてほしい」と女性が泣きながら駆け込んできた。試験は午前10時からで、女性の試験会場は京都府京田辺市の同志社大京田辺キャンパスだった。しかし、女性は間違えて京都市上京区の今出川キャンパスに向かっていたといい、同署は「女性の人生にかかわる緊急事態」として、桐村富男署長が口頭で許可し、特別にパトカーを出動させた。そして、この女性を乗せ、交番から南へ約20キロ離れた京田辺キャンパスまで送り届けたという。女性は10時25分ごろにキャンパスに到着した。あと5分遅いと受験資格を失うところだったそうだ。
九条署は「警察として妥当な判断だった」と話しておられたそうだが、わたしも同感である。
この受験生が大学入試という将来を決める人生の大きな出来事の中で、受験できないかも知れなかった。この危機を九条署の職員の愛ある行為によって乗り越えられた。この事は生涯忘れられない思い出になったのではないだろうか。このような心温まるニュースを聞くとほっとする。それは毎日あまりにも強盗や殺人、幼児虐待など、殺伐としたニュースが多いからだ。良いことも悪いこともメディアは私たちの心に大きな影響を与える。各誌がこのニュースを報じたのも、今の日本に明るい希望を、愛を与える必要を感じているからなのではないか。このような時代の中にあって癒しを求める人々の多いことを思うと、日本全国で起こっている心温まる記事をもっともっと新聞の全国面で報道してほしいものである。
話は変わるが、子供のための読み物とされている童話の中には、文学的傑作にとどまらず宗教書としても最高のものがいくつかある。そんな中で、とても知られたお話に『靴屋のマルチン』(原題:愛あるところに神もある)がある。文豪トルストイの作品だ。この作品もわたしに感動を与えたものなので紹介しよう。
ある町にマルチンという、独り者の靴屋がいました。地下の一室が店で、そこで寝起きしていました。その部屋には明かり取りの窓が1つあるきりでしたが、そこから往来を行く人々の足元が見えました。靴を見ただけで、マルチンはそれが誰か分かりました。長いことその街に住んでいたので、たいていの人の靴は彼が直していたのでした。
マルチンは職人気質の、腕の確かな靴屋でした。仕事がきれいで、品質もよく、納期をきちんと守りましたし、値段をふっかけたりしないので、仕事が途切れることはありませんでした。
マルチンは奉公していた頃に結婚しましたが、何人かの子供を失い、妻も男の子一人を残して他界してしまいまったのです。そして、たった一人残った息子カピトーシカを、男手一つで育てましたが、ようやく仕事が手伝えるようになった頃、1週間寝込んだかと思ったら、あっさり先立ってしまったのでした。
あまりの不幸に神を呪い、死を願いました。息子の代わりに、なぜ老いぼれの自分を召してくれなかったかと、神様に何度も何度も苦情を言いたてました。いつしか教会にも行かなくなってしまいました。そんな辛い出来事の中で生きる希望も失いかけてしまいます。周りの人との関わりもだんだん疎ましく感じられ、ただ惰性で続ける仕事に支えられて毎日を送っていました。
ある日、教会の神父さんが傷んだ革の聖書を修理してほしいと、聖書をおいていきます。マルチンは今までの辛い経験から神への不満をもっていましたが、それでも、神父さんが置いていった聖書をちらちらと読みはじめます。
最初は「休みの日に読もう」と思っていたのですが、読み出すと毎日数ページ読まないと気が収まらなくなってしまいました。時にはランプの油が切れても聖書を置くのがいやになるほどでした。
読めば読むほど、神様が何を望んでいるのか、神様のために生きなければならないか分かるようになってきました。心に喜びが満ちあふれるようになりました。以前は床に入るときには亡きカピトーシカの事を思い出しては溜息をついていたのですが、最近では「グローリア(主に栄光あれ)、グローリア、主の御心のままに。」と言えるようになりました。
このことがきっかけになって、マルチンの生活ぶりはがらりと変わりました。以前は休みの日には居酒屋に行って紅茶を飲んだり、ウォッカを引っかけて陽気に騒ぎ、道行く人に軽口をたたいたり、絡んだりしていました。
しかし最近では朝早く起きて仕事に精を出し、仕事が終わるとランプを机に置き、聖書を取り出して読み始めるのでした。読めば読むほど理解も進み、心も晴れてくるのでした。
あるとき、いつもより遅くまで読んでいたら、次の文章に行き当たりました。
求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。(ルカの福音書6:30-31)
それに続いて、次のような文章がありました。
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」(ルカの福音書6:46-49)
マルチン眼鏡をはずして聖書の上に置き、肘を机についてこのことを思いました。「はたして私の家は岩の上に建っているのだろうか、もしかして砂の上じゃないか。・・・・・神さまのお心から離れないように、とにかくまじめに一所懸命やろう。」
マルチンは聖書を読むうちに、イエス様に会いたいと思う気持ちがつのってきました。イエス様が家にきてくれたらなあと。
そんなある日の夜、夢の中に現れたイエス・キリストがマルチンにこう言います。
「マルチン、明日、おまえのところに行くことにしてあるから、窓の外をよく見てご覧。」
次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているお爺さんが。マルチンはそのおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。
それから、今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、その親子を家に迎え、ショールをあげました。
まだかまだかと、イエス様がおいでになるのを待っていると、お婆さんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。その少年とお婆さんを一緒に招き入れ、マルチンは少年のためにとりなしをして、いっしょに謝りました。
そうして、ああ、イエス様はとうとう来てくれなかった、やはりあれはただの夢だったのかなあと思いながら、仕事のあとかたずけをし、いつものように、天井のランプをテーブルの上に移し、福音書を棚からとり出して机の上に置きました。
福音書を読み始めようとしたとき、昨夜のようなことが起こりました。後ろで何かの気配がします。振り返ってみたら、いくつか影が見えます。ぼんやりしていて、何の影かよく分かりません。
「マルチン、マルチン!わたしがわかりますか。」
「どなたなのですか。」
「わたし、わたしだよ。」・・・・・雪かきのお爺さんが姿をあらわしました。微笑んだかと思うと、消えてしまいました。
「今度はわたし。」・・・・・赤子とその母親が現れ、二人ともにっこりして、消えました。
続いてお婆さんと少年が現れ、同じように笑いかけると、消えてしまいました。
マルチンは心が喜びで満たされました。いつものように十字を切り、福音書を読み始めました。 そこには、このように書かれていました。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイの福音書25:35-40)
マルチンは気づきました。主が確かにおいでになったのだということを。
貧しい人の姿の中に主イエス・キリストを認めるのは、信仰の業だ。まさかキリストと関係があるとは思いもよらなかったような人々が、実はキリストであったというのだ。信仰の父アブラハムもそのように神の御使いをもてなした。神はその時、約束の子イサクの誕生とソドムとゴモラの裁きを知らされた。
私たちは、赦された者として、永遠の命を約束された者として、恵みにふさわしく生きるようにと主が召してくださった。それは、あなたが日々の生活の中でキリストのことばに生きるときに、主なる神ご自身がそこにおられることを体験することになる。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」といわれた方が・・・・。神は、あなたが署長やマルチンのように、人々の必要に答えられる人となることを望んでおられる。
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