「豚に真珠」の豚とは誰か

このことばは、「猫に小判」「馬の耳に念仏」と同じ意味で、「価値の判らない物に価値のある物を与えても無駄になる」という意味で使われていることわざです。この「豚に真珠」は日本の諺と思われがちですが、実は聖書の一節から来ています。

「神聖なものをに与えてはいけない。また、真珠を豚になげてはならない。おそらく彼らはそれを足で踏みつけて、向き直ってあなたがたに噛みついてくるであろう。」(マタイ7章6節:新改訳)に由来しています。

 たいへん印象的で、一度聞いたら忘れられない言葉ですね。何が印象的かと言うと「豚」という言葉です。日本を代表するアニメーター、宮崎駿監督は豚をよくキャラクターに使っています。「紅の豚」や、アカデミー賞を受賞した「千と千尋の神隠し」にも、むさぼり食って豚になってしまった両親が出てきます。

「豚」という言葉は料理以外ではあまり良い意味に使われることはありません。日本でも、「お前は豚みたいなやつだ」と言われれば、それこそ取っ組み合いのケンカになるでしょう。なぜなら「豚」という言葉を誰かに対して言ったとき、それは明らかに相手を誉めているのではなく、侮辱した言葉になるからです。

聖書の世界でも同じです。「豚」と言えばそれは良い意味で使われていることはありません。例えば、箴言11章22節に、このようなみことばがあります。                  

「 美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。」(箴言11章22節:新改訳)

これは、金の輪という高価な装飾品が豚の鼻につけられているのと同じほど、無意味で不釣り合いなことはないということです。そもそも旧約聖書では、豚は汚れた動物とされ、食べることを禁じられていました。

「犬」も同様です。犬も聖書では、誰かを犬であると呼んだとき、それは侮辱していることになりました。これは日本でも同じです。このように、「豚」も「犬」も、相手を見下している言葉になります。

「神聖なものを犬に与えてはならず、また、豚に真珠を投げてはならない。」(マタイ7章6節a)

犬に神聖なもの、例えば聖書を与えたとしても、犬はそれを理解することができません。それが尊い神の言葉であり、神聖なものであることが分からないのです。豚に真珠を与えても同じです。豚にはそれが高価な、貴重なものであることが分かりません。平気で踏みつけるでしょう。

まさしくそれと同じように、誰かに対して神聖なものを与える、あるいは説いても、全く理解しようとしないことは、真珠のような尊い教えを授けても、その値打ちが分からないというのです。

ところで、この聖書の言葉は、ここだけを切り離して読むと、みことばが伝えようとしている真意を掴み取ることができません。そこで、マタイの福音書7章1節〜6節まで全体について文脈から見てみたいと思います。ここでは新共同訳聖書で記します。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。
 自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
 そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直 ってあなたがたにかみついてくるだろう。」(マタイの福音書7章1〜6節)

ここでの論点は「人を裁くな」とは何かということです。

相手に見える要素は、自らの中にある要素です。私たちは、自分の子供の中に自分が嫌っている要素を見つけると、子供をしかってしまいます。しかし、子供は私たちからそのことを学んできたのです。私たちは自らの中にある要素を改めれば、相手に見える要素も改まるのです。まず己からです。

次に「豚に真珠」とは何かということを見てみます。

犬に肉と紙幣を選ばせれば肉を選びます。犬にとっては肉の方が価値があるからです。同様に、人に自我と真理を選ばせれば、生まれながらの私たちは自我を選んでしまう者です。餌を食べている豚に真珠を投げ付ければ、怒って噛み付いて来るでしょう。目先の餌が食べられないのは、真珠の価値を知ることを妨げるものだからです。同様に、自我に愛着する者に真理を語りかけても、真理は自我(罪の支配にある生まれながらの人間の性質)にとっては敵対するものですから、かえって噛み付いて来ることになります。

豚」とはいったいだれのことなのでしょうか。

たった今、イエス様が「裁いてはならない」とおっしゃり、そして「自分の目から丸太を取り除け」と言われて、人を裁くことの恐ろしい高ぶりについて警告されていたのに、もうすぐにそのことは忘れてしまっているのが私たちの姿です。みことばを聴くときに、人のことだと思って「このメッセージはあの人には必要だ」「ああ、こんなイエス様のみことばをあの人に聞かせたい」「あの人が、これを聞いて自分の傲慢さに気がつけばよいのに」と思っているあなた自身。そう、豚とは、犬とは、自分以外の誰かであると思っているあなたなのです。これこそがまさに、イエス様のみことばを聞いても理解できない豚や犬のような私たちのある姿であるということです。

そのように、このイエス様のみことば、まず私たち自身が聞かなくてはならないものなのです。そういう思いで、あらためてこのみことばを読むと、いかに自分自身が「神聖なるものを与えられた犬」のようであったか、「真珠を目の前に与えられた豚のようであったか」ということを示されます。

最後のところでは「それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」といっておられます。それは、私たちは欠点を指摘されると、自分が間違っていることを認めようともせず、あるいは間違いに気づいているが故に、逆切れして怒りをあらわにし、かみついていくことにほかなりません。これが、肉に在る者、生まれながらの人間の姿ではないでしょうか。

イエス様の最後のエルサレム入場の場面で、多くの民衆が「ホザナ、栄光あれ」と叫んで主を歓迎をしたにも関わらず、1週間後には「十字架につけろ」と叫んでいる民衆の姿を見ます。ですから、ここのみことばは、その後十字架に架けられる受難のイエス様の姿をあらわしているのです。イエス様がたどられたカルバリの道です。

ヨーロッパで宗教画を描いた多くの画家が十字架の絵を描いていますが、その民衆のなかに自分を描きこんでいます。それは、私が豚のような人間で、主を十字架に架けてしまったのだと告白しているのです。いつしか豚のような者だった自分が、真珠であるイエス様の愛にふれ、自分自身の罪深さに気がつき懺悔している姿を見ます。

赦しは主のものです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」と執り成されたイエス様にまことの愛を見出したのです。

あなたを赦し執り成されている主に気がつきますように心からお祈りいたします。